八角堂便り

歴史的仮名遣に思うこと / 小林 信也

2019年6月号

 昨年十月号に次のような歌を掲載していただいた。
  もう何度話しただらうヤマボフシ、ヤマバウシどちらの表記もあると
 説明すれば、旧かなで短歌を作っている母が、「やまばうし」を詠んだ歌を歌会に出したところ、「やまぼふし」と直された。そのことを何度も思い出して言うので、その度に「どっちでもいいんだよ」と言っている、というものである。ウィキペディアには、「山法師」と「山帽子」の両様の漢字表記が有る、と有ったのでそれに従ったものだ。「法師」は「ほふし」なので、石本照子さんの歌集『山法師』は旧かなで書けば「やまぼふし(やまほふし)」となる。「帽子」の方は広辞苑と大言海に食い違いがあり、前者では旧かなでも「ぼうし」だが、後者は「ばうし」としている。一体この花は「山法師」「山帽子」いずれなのか。意味的に法師と帽子を取り違えることはないだろうから「ヤマボウシ」と言い習わした花の名を漢字に戻すときに二通りに別れたものだろうと思う。
 似たような話は「銀杏」にもあって、「いてふ」「いちやう」の両様の表記がある。広辞苑では「いちやう」を採っていて、『仮名遣「いてふ」とも書くのは「一葉」の当て字から。語源的には「鴨脚」の近世中国音ヤーチャオより転訛したもの。』とある。〈近世〉の中国語の転訛というのも変に思うが、要するに発音はあくまで「イチョウ」であって、それを歴史的な仮名遣いで書こうとした時に「いてふ」「いちやう」の両方があったということだろう。「蝶々」も、平安時代には本当に「テフテフ」と発音していたという根拠があるようだが、それがいつから「チョウチョウ」になったのだろうか。発音の変化については、すでに定家の時代に「お」と「を」の混乱などが生じていたとも聞く。現在の歴史的仮名遣は契沖、宣長が整備したもののようだが、古典を読むには便利でも、日常のことばの表記については、時代の経過によってそれなりに混乱と整理を繰り返しているものらしい。そう考えると、今私たちが短歌に旧かなを用いるときに「これは『ちやう』と書く」とか「ここは『ふ』じゃなくて『う』でいい」とか言っているのが衒学的な行為に思われて段々馬鹿らしくなってくる。
 思えば現代口語の発音に即した現代かなづかい(新かな)の制定というのは随分思い切った出来事だったのだ。今後は音声そのものの記録も残るから、発音の変化による表記の混乱も少ないだろう。文語との親和性は歴史的仮名遣の方が高いと思うけれど、表現手段としては新かなの方が良いのではないかと今さらながら思っている(個人的な感想です)。まだ予定はないが、わが第三歌集は新かなになりそうな予感があるのである。

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