短歌時評

適切な距離の取り方 / 濱松 哲朗

2019年6月号

 この原稿は改元前の四月中旬に執筆しているが、これが掲載される頃には、今回の官民総出による『万葉集』持て囃しキャンペーンも収束へ向かっているだろうか。もしまだ続いているようであれば、新装版が刊行された品田悦一『万葉集の発明』(新曜社)でも読んで、さっさと頭を冷やしてもらいたい(もっとも、この名著の新装版刊行も、結局は改元にまつわる現象のひとつなのだが)。
 「短歌研究」五月号に寄稿された、と言うより、雑誌掲載以前に文章が第三者の手によりTwitter 上で拡散されてしまったために「決定稿」を掲載することになった品田の寄稿文「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」は、その内容もさることながら、作品やテクストとの適切な距離の取り方\\\\\\\\\を『万葉集』を例に示していたように思う。「令和」の典拠となった「梅之歌」序をただ読むのではなく、その更なる典拠として張衡「帰田賦」や王義之「蘭亭集序」を引きつつ、更に当時の政治事情などに目配りをしながら、品田はテクストが最大限に力を発揮する地点で、丁寧に読み解いていく。そのスリリングな過程は、筆者のように古典との縁が薄い者にも興味深く、発見と探求の喜びに溢れているようで快かった。
 何より、品田の文章は決して『万葉集』や古典を称賛したり、一部の現代短歌を貶めるための手段として『万葉集』を持ち出したりしていないので、安心して読むことができた。これは裏を返せば、『万葉集』を讃える文章の底の方から、口語その他現代短歌の様々な試みに対する否定の欲望が透けて見えてしまうと、もうその文章は読み通すことすら苦しくなってしまう、ということでもある。この五月号の特集は「迷ったら『万葉集』、そして古典――わたしが立ち返りたい五首」というものだったが、残念ながら、『万葉集』その他の古典のテクストがこれからの読者に向けて開かれたものであることに最も自覚的かつ意志的であったのは、一応は特集外である品田の寄稿文であった。
 無論、これは古典と現代作品の立場が逆になっても起こり得る問題だ。「現代短歌」五月号掲載の対談で永田和宏が、〈前衛‐反前衛〉の「読み」における対立を振り返りながら、こう述べている。「作者の現在が年譜からだけ見えてくる作者では少しもおもしろくない。菱川善夫さんをはじめとする前衛短歌の論客たちは、そこをすっぱり切ってしまう。一方、近代の写実のなかで歌を作っていた人たちはその時、作者はどういう状態にあったのかということばかりに拘泥する。切るほうと参照するほうの折り合いの付け方というかな、その読みの振幅のなかに、折り合いの付け方があるように思う。そこをどちらかにしなければならないと考えると、歌が、そして歌の解釈が痩せます」――。立場の相違、対立構造が先行した議論は果たして、実りあるものかどうか。腹の探り合いに終始する対話は、何を創造しているというのか。
 「短歌研究」五月号の時評で中島裕介が、「短歌における現象や一連の運動」を分析する際に、運動体/運動/理念/技巧・技法という「四つの側面に便宜的に分けて議論できないだろうか」という提案をしている。これには筆者も大いに賛同する。問題は、「現象や一連の運動」を分析しようとすれば、歌(=テクスト)や歌人(=作者)の文脈がおのずと交錯することになる、ということだ。歌を痩せさせることなく、テクストと適切な距離を保ちつつ、人間同士のくだらない腹の探り合いをしない、そんな批評を実践していく必要がある。ほんとうの\\\\\新時代は、その実践の先にしかない。

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