短歌時評

放っておけば良いものを / 濱松 哲朗

2019年5月号

 基本に立ち返って考えてみたい。短歌をつくり、向き合っていくという基本である。
 去年(二〇一八年)は歌集の当たり年だった、という声をあちこちで耳にする。「短歌研究」四月号の企画「注目第一歌集をリレー書評」には、去年第一歌集を刊行した十人が参加しているが、そこには『メタリック』(小佐野彈)『かざぐるま』(田口綾子)『温泉』(山下翔)『いらっしゃい』(山川藍)等、話題になったタイトルがずらりと並んでいて壮観だった。
 それにしても、複数の歌や連作を並べることで一冊を構成するこの「歌集」という単位は、そもそも構造上、作り手側にある程度の持続的な創作活動を要求する発表形態である。角川「短歌」三月号の特集「短歌の壁 原因と乗り越え方」を見ても、ほとんどの執筆者が、スランプと向き合うためには継続的に短歌とつき合っていくことが重要だと考えていることが見て取れた。この号には、別企画で座談会「歌壇・結社のこれからを考える」も掲載されているが、その中でも結社における月詠(隔月や季刊の場合もあるが)と選歌というシステムについて多くの言葉が割かれていた。月詠という、この極めて結社的なシステムが、継続的作歌を作者の側に促しているばかりではなく、歌集という発表形態の構造をも規定しているのが分かる。小説や詩とは違って、「書き下ろし歌集」という文句をあまり聞かないのも、短歌の創作環境としての結社のシステムが影響しているように見える。
 こういう初学者向け特集で、継続やたゆまぬ努力の重要性を説いてスランプの克服を促す文章を読むたび、ひねくれた筆者は、継続や努力の効果をあくまでポジティブに捉えようとする姿勢をちょっと気持ち悪いと感じてしまうし、戦う相手が減るのだ\\\\\\\\\から\\他人のことなど放っておけば良いのに、と思ってしまう(筆者の辞書に「歌友」の文字は存在しない。強いて言うなら「同業者」だろうか)。継続や習慣化は、要するに創作活動を個々人の生活の一部として日常化することだ。だから、継続を説くことは、短歌という大義名分によって他人の生活習慣について云々しようとすることに繋がりかねない。何より、読者にとっては\\\\\\\作者の創作事情なんてどうでも良いことだ(こういう特集が出るたびに、短歌の世界の中心が今もなお作者にある事実を思い知らされる)。無論、習慣化の意義は筆者も重々承知しているし自分でもある程度実践しているわけだが、それでも敢えて、そのリズムが誰にとっても毎月の十首である必要は無いだろう、と言いたくなる。締切という外的要因は、個々人が創作活動のリズムを形成する上でのきっかけでしかない。選ぶのは個人だ。
 そうした思いもあって、座談会「歌壇・結社のこれからを考える」の方は結社に所属していない若手論客の筆頭・寺井龍哉が参加していたことに大きな意義があったように読んだ。寺井は、「結社に入った場合の負担と恩恵を天秤にかける意識はすごくあると思う」、「結社側はその天秤で勝とうとすると、若者の感覚からは、勝ち目はない気がします」と言いつつ、作品の鑑賞のレベルにおいては「新しい価値観が出てくるたびに、それに追いつけないと公正でないものとして振り落とされてしまう。それは文学的に有益なことじゃない、価値観レースに乗らないことが大事だ」と発言している。多角的に全体を見渡そうとする彼の意図は良く分かる。しかし何故、その話をするために野口あや子との個人的会話の内容を巻き込んだのか。自身の活字にならない発言が穂村弘によって拡散されることで「基本的歌権」の話題が展開された構図を、寺井はもう忘れてしまったのだろうか。

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