青蟬通信

住むことの強さ / 吉川 宏志

2019年2月号

 澤辺元一さんの追悼号にも書いたことだが、私が「塔」に入会したころは、大阪は上新庄(かみしんじょう)の古賀泰子さんの家で、編集作業が行われていた。八〇年代の末のころである。
 毎月一回、日曜日に古賀さんの家を訪問し、若手は割付作業を行う。夜は古賀さん手作りの御馳走が出た。フランス料理のテリーヌがとても美味しかった記憶がある。あれはかなり手間ひまがかかっていたはずだ。
 古賀さんの家の二階は下宿部屋になっていた。私の高校の同級生の二神(ふたがみ)光太郎君も数年間そこで暮らした。編集作業後は、二神君も呼ばれて、いっしょに食事をする。澤辺さんからいろいろと政治的な議論をふっかけられていた。天安門事件などが起きた時期だったのである。
 古賀さんが彼の名前を気に入って、「二神光太郎来る」という結句の歌を作っていた記憶があるのだが、当時の「塔」を読み返しても、見つけることができない。三十年の時間がすぎると、現実と思い込みが入り混じってしまうのだろうか。
 歌集『榎の家』(一九九三年)を読むと、あの家の記憶がよみがえってくる。
  半世紀住むとは知らず移り来ぬ昭和十三年七月十三日
という歌があり、そんなに古い家だったのか、と驚く。たしかに時間が経った家特有の薄暗さがあったが、古賀さんはきれいに住まわれていた。住むことにも上手・下手があり――私などは住むのが下手な人間なのだが、古賀さんは住むのがとても上手い人なのだった。
  階上と階下に女ひとりずつ住みて季節の流れ行くなり
  ひと鍋の鯛の粗(あら)炊き分かち合うわが階上に住むおとめごと

という歌があって、これは二神君が退去したあとに下宿した女子学生を詠んでいるのだろう。古賀さんは寂しさをあまり見せない人であったが、こうした歌にはやはり孤独感が滲んでいるようだ。
  「それだけの人だったのよ」呟けば後姿見せて消え去りにけり
 『榎の家』を再読していて、なぜか心に残った一首。この前には夢の歌があり、あるいは夢の中の風景だったのかもしれない。古賀さんはきっぱりとした人で、当時はきっぱりとした態度の中にある悲しみに気づかなかったが、今読むと、心の襞が見えてくる感じがする。
  紅き花咲き継ぎて行くグロリオサその名ようやく覚えしばかり
 古賀さんの歌会での発言で覚えているのは、花屋に行って新しい花を見たら、必ずその名前を入れて、歌を作るようにしている、という話である。花の名前を忘れないために、そうするのだという。歌の中に自分が知った花の名前を使うと、その出会いは心に深く刻まれていく。身の回りにあるものの名前を大切にすること。それが古賀さんの変わることのない作歌姿勢であった。
  さみどりのアスパラガスの〈ゆうき姫〉箱に眠るを夕べに起こす
 歌会で読んだ記憶がある歌。野菜などにユニークな商品名をつけるのは、このころから増えていったのではないか。そんな名前を楽しみながら歌っている。「起こす」から、やさしい手の動きが感じられる。
  届かざる高みに花を咲かせたるネズミモチの下つっくりわが立つ
 この歌も歌会で出会った気がする。「つっくり」は大きな辞書には出ている言葉で「ひとりでぼんやりしているさま」という。この一首で初めて「つっくり」という言葉を知り、その響きがとても印象的に感じられた。普段あまり目にしない言葉を見つけてくるのも、作歌を長く続けていく上では重要なことなのである。
  町なかに大木抱え住みおれば人さまざまに噂するらし
 庭にさまざまな木を植えて暮らしていると、落ち葉などを迷惑がる人も出てくる。歌集の題名になった榎は、結局切り倒すことになってしまう。新しくなっていく大阪の町の中で、古賀さんは庭の木々に手を触れる暮らしを、ずっと守り続けた。穏やかな暮らしの中にある強さに、今ごろになって気づくのである。

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