短歌時評

歴史と鍵 / 濱松 哲朗

2018年8月号

 このところ、アンソロジー『短歌タイムカプセル』(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著、書肆侃侃房)について書かれた文章を読みながら、短歌史について考えている。
 服部真里子は「現代短歌新聞」六月号の書評で「最大の特徴は、収録歌人のならびに五十音順を採用したところだろう」、「五十音順を採用することで、『短歌タイムカプセル』は、短歌史的な視点を切り捨てた」と述べ、「一千年後に届けたい現代短歌アンソロジー」という帯文を引きながら、「届けるのが百年後なら、歴史的文脈が直結している以上、切り捨てることはできない。しかし一千年後なら、生き残るのは公の歴史ではなく、個人性であり、短歌そのものだ」と指摘する。編者の一人である佐藤弓生も「かばん」六月号で、従来のアンソロジーが「いわゆる「歌壇」コミュニティに属する歌人(短歌結社に属する人、なんらかの短歌の賞を得た人など)」に大半を占められている一方で、「そうしたコミュニティとはあまりかかわらない文芸活動で注目されている歌人」の著作を通じて短歌に興味を持つ場合も多いことから、「本書では、「歌壇史」とは異なる視点をとりいれる必要があると判断しました」と書く(「『短歌タイムカプセル』のセールスポイント七つ」)。
 佐藤も述べているが、「「歌(人)を選ぶ」という作業」には当然ながら「編者自身の短歌観が反映」される。従来のアンソロジーが取りこぼしてきた歌人を収録することも、五十音順であったところでひとつの歴史観の提示である。敢えて佐藤が「短歌史」と書かずに「歌壇史」と記した意図をより過激に言い換えるとすれば、同じ「かばん」六月号に載った山田航の次のような言葉になるだろう。
「従来の短歌アンソロジーというのは「短歌史そのものを編集する」という目的のために編まれてきた」、「わかりやすく言い換えるなら「どんな歌人を短歌史に残すのか」という指針設計である」――。だからこそ山田は、『桜前線開架宣言』(左右社)を編む際に「短歌結社のパワーバランスを意地でも無視する」ことを「一番意識した」と言う。その上で、「『短歌タイムカプセル』は、「サブカルチャーとしての短歌」の水脈を初めて短歌史的に可視化させようとしたアンソロジーになっている」と指摘する(「「サブカルチャーとしての短歌」の水脈」)。
 「歌壇の目からするとシーンを引っかき回すヒールやトリックスターだった」歌人は、むしろ「それぞれの時代のサブカルチャーと同列に読まれた」と山田は書いているが、同じ「かばん」六月号で黒瀬珂瀾は(『短歌タイムカプセル』とは異なる文脈ではあるが)次のように述べている。「境涯詠、「生活即短歌」、「今日有用の短歌」思想は短歌の実作者を増やし、その流通を容易にさせたが、その一方で〈短歌〉という空間をより強固な枠に囲ってしまった、そんな矛盾が存在したのでは、という気がしてならない」(「謎をかかげてみる」)。
 無論、アンソロジーが決してアーカイブ全体にはなり得ないように、歴史的叙述もまた、全てを網羅的に述べることは不可能であり、何らかの意図を以て紡がれざるを得ないのが実情だ。ただ、ある思想に基づいた物言いは、当然ながら相容れないものを批判の槍玉にあげ、場合によっては無視する。従来の歴史的叙述が想定してきた通史的な一本のレールは、むしろ網目の荒いザルに近いのかもしれない。歴史的な叙述や、叙述の背後にある思想を正典化せず、事象を複線的かつ多面的に見ることが今後求められていくだろう。ただ、歴史というタイムカプセルの鍵を私たちは本当に手にしているのか、という疑問も尽きない。

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