八角堂便り

永田和宏の草木歌 / 池本 一郎

2018年7月号

  きみがもうゐないから自分で覚えなければと柵のむかうのししうどの花
 永田和宏第13歌集『午後の庭』の歌。ししうどはセリ科の大型多年草で8月に白っぽい花が咲く。散文的な「きみがもうゐないから」(これを初句と読む)が極めて重要。かつて第5歌集『華氏』で「木の名草の名なべては汝に教わりき冬陽明るき榛(はん)の木林」と歌っている。ししうども榛の木も、きみ=汝=河野裕子に教わった。だがその死の後は「自分で覚えなければ」というのである。
 沈痛な覚悟(自覚)の歌である。永田和宏は草木詠が多いが、「なべて」河野裕子の伝授だったのか。その妻が64歳で早世。覚悟は、草木名を知ることよりも時間を共有できないこと、即ち孤立即ち絶対の愛の喪失にある。甘えるだけ甘えて至らなかった自分への腹立ちや後悔。いやそれが愛だとさえ錯覚していたとしたらどうだ。自分へのリベンジもこめて草木を覚えることが、せめてもきみに報いることではないか。
 過去の永田歌集には、「たかさぶろうの花教えくれぬたかさぶろうの花はどうしても覚えられない」(『饗庭』)「もういちど高三郎を教えてよありふれた見分けのつかない高三郎を」(『夏・二〇一〇』)とか、「段戸襤褸菊(だんどぼろぎく)はじめてきみが教えたる雨山に続く坂の中ほど」(『日和』)「透明な秋のひかりにそよぎいしダンドボロギク だんどぼろぎく」(『華氏』)などの歌がある。河野裕子には「あなたには何から話さうタカサブラウ月が出るにはまだ少しある」(『葦舟』)の秀作があって通底している。「ヒメジオンとハルジオンの違いをさりげなく聞けばたちまち機嫌をなおす」(『饗庭』)などをみると両者の呼吸に感心する。愛の究極にこういう授受関係があって、それは全き理想の形といえる。そばに居ると互いに活性化し拡大する。
 『午後の庭』は河野裕子の死の一年後で、草木歌が特に顕著かと思った。40種以上、70首以上。一念発起、かと。で、遡って前歌集『夏・二〇一〇』を調べると約50種、約100首もある。順に遡ると『日和』から『華氏』6冊も大体70首前後。『午後の庭』が特別なのではなく、みな相当高い%だ。でも本集は掲出歌も含め、殊更思いが深い。「チューリップはいいわねお尻がかはいくて、なんて言つてたはずのあなたが」etc……。
 初期『メビウスの地平』以後の4冊の草木は、景として歌に寄与したり、象徴・比喩・認識に関わることが多いようだ。「椎よ椎びしょ濡れの椎 罵しらぬ汝を思わず撲ちすえしこと」等々。
 あらためて思う。河野裕子の痛快なエッセイ「花音痴」(2011年7月)を。―葉牡丹をキャベツと言い、イチョウとプラタナス、檜と杉の区別もできないうちの亭主―と。独特の親愛あふれて。

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