八角堂便り

詩は世界の側に / 永田 和宏

2018年6月

 是枝裕和さんがカンヌ映画祭で最高賞の「パルム・ドール」を受賞した。最近作「万引き家族」での受賞である。親しくさせていただいているものとして素直にうれしい。
 是枝さんとは何度か対談をしているが、京都産業大学で行った公開対談は『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(文春新書)として一冊になっている。山中伸弥、羽生善治、是枝裕和、山極寿一の各氏に講演をしていただいたあと、私と対談をした記録である。
 是枝さんとの話の中で、「果たして映像を制作すること、映画を作ることは自己表現なのだろうか」という自問が印象に残っている。講演の中では「映画というのは、決してつくり手である自分を撮るのではありません。僕はカメラの脇にいて、カメラは世界に向いている。世界を撮るんです。表現されるべきものは世界の側にある。」と言っている。
 撮りたいと思っている世界との齟齬が生まれたときに、その齟齬、乖離のなかにこそ本来の撮りたいものがある。それを谷川俊太郎風に言えば「詩というのは、自分の内側を表現するのではない。世界の側にある驚きが詩になる」ということでもあろう。
 これは是枝さんも、谷川さんもかなり思い切ったことを言っているのであるが、しかし、われわれ歌を作っているものにとっては、二人のこの物言いは容易に納得できるものではないだろうか。
 歌は普通に考えれば自己表現ということになる。しかし、ほんとうにおもしろい歌は、あらかじめ作者が言いたいと思うことがはっきりわかっていて、それを過不足なく表現したものよりは、なんということもない風景のなかに、思いがけず発見したものの存在などではないだろうか。自分があらかじめ想定していた文脈からはみ出た部分、そのはみ出た、あるいはギャップとしての裂目に垣間見えたモノに気づくということ、その気づきまでを自己表現と考えたほうがいいのだろうと、私は思う。

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