短歌時評

姿勢と信念とご都合主義 / 濱松 哲朗

2018年6月号

 「八雁」三十六号(二〇一七年十一月)から三十八号(二〇一八年三月)にかけての、渡辺幸一と牛尾今日子のやり取りが興味深い。
 この二者の論争(なのか?)は二〇一八年四月時点で、①渡辺幸一「形式と韻律の力を信じて」(「八雁」三十六号)、②牛尾今日子「じぶんの信じるものはじぶんで決める 「八雁」第三十六号渡辺幸一時評に反論して」(「八雁」三十七号)、③渡辺幸一「作る姿勢の大切さ――牛尾今日子の反論に応えて」(「八雁」三十八号)という三本の論考から成る。論点は複数に渡っているが、[A]「短歌往来」二〇一七年八月号の特集「30代歌人の現在」鑑賞における両者の相違、[B]小佐野彈「無垢な日本で」(「短歌研究」二〇一七年九月号)への評価の相違、[C]それらに付随する渡辺の若手批判と「歌を作る姿勢」の重視、およびそれらに対する牛尾の批判、という三つに、大まかに整理できる。
 ①において渡辺は小佐野を「自分の人生にとって重要な事柄と真剣に向き合い、それを短歌の韻律に託す歌人」と評価するが、②において牛尾は「よほど深く緻密な作品への洞察に基づかない限り、作歌姿勢についての議論は、個人の信念の押しつけか、一般化された言葉が上滑りするほかにない。批評において作歌姿勢を話題に載せることにどれほどの意味があるのだろうか」と、渡辺の論の進め方そのものに疑問を示す。だが、③で渡辺は「一冊の歌集ならばもちろんのこと、たとえ数首から成る一連であってもそれなりに、作者の歌に対する姿勢は読み取れるはずだ」、「若い世代の人たちには私がここに書いた内容をすぐに理解してもらえないかも知れない。しかし今後の人生の過程でさまざまな苦悩や迷いを経験し、短歌という詩を通してそれらと向き合う時、『歌を作る姿勢』の大切さを実感することが必ずあると私は信じる」と、自説を繰り返すに留まっている。
 当然ながら、読者はテクストの共有を通して・・・(テクストの下に・・・ 、ではない)平等に、同じ地平に立つ。だから、①で渡辺が「歌を作る姿勢」を読み取る行為そのものを否定することは出来ないし、互いの読みを否定し合う議論は基本的に不毛である。①や③の場合、問題は個人の読解の方法論が絶対的価値観として他を圧迫する力を有することにあり、批判する側としてはこのヒエラルキー化・・・・・・・を論理上のすり替えとして叩けば片付く話だ。だが、②における牛尾の批判は、作品から「歌を作る姿勢」を読み解くべきか否かというテクスト読解上の姿勢・・の話に留まっており、牛尾自身が認める「よほど深く緻密な作品への洞察」の、深さ・・緻密さ・・・を認定する何ものか・・・・についての言及が見られない点も惜しい。
 とは言え、両者の対話の不成立ぶりの理由は何より、③で渡辺が牛尾の反論に応え切れず、自説の反復に終始した点にある。更に、③の渡辺は先の引用に加えて、「もっとも『幼い』ということは歌人だけの問題ではない。米英に三十年余り暮らして来た私から見ると、日本の若者は外国の同世代の人たちに比べ、精神面も行動面もかなり子供っぽい」と、若手に対して一言も二言も余計だ。筆者もまた「ゆとり世代」等と蔑称されるカテゴリーに含まれるが、そんな時代に生まれさせられた・・・・・・・・側としては、先行世代の無責任な言葉には呆れるしかない。「日本人の差別意識について」(「合歓」第八十号、二〇一八年四月)ではメディアにおけるマイノリティ差別の現状を指摘した渡辺だが、所詮、レッテルやステレオタイプをみずからの都合で取捨選択できる身分からの発言だったということか。こうした権威的ご都合主義・・・・・・・・の「姿勢」をも、読者・・はテクストから自由に容赦なく読み解くのである。

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