青蟬通信

『蟹工船』の比喩 / 吉川 宏志

2018年6月号

 今年の三月十五日に、北海道の小樽に行った。まだ雪が積もっている道に、寒い雨が降っていた。何度も滑りそうになりながら、小樽文学館にたどりつく。
 小樽はプロレタリア作家の小林多喜二が生活していた町で、ここには彼が特高に虐殺されたときのデスマスクが展示されている。栗木京子さんが歌に詠んでいて、
  触れてよしとデスマスクそこに置かれあり小さき前歯二本のぞかせ
                                『夏のうしろ』
とあるが、今はガラスケースにしまわれていて、触れることはできない。ただ、前歯二本は歌のとおりに唇からのぞいていて、妙になまなましいのであった。
 小林多喜二の小説を、じつは私は読んだことがなくて、この旅をきっかけに読みはじめた。
 小樽を描いた作に『一九二八・三・一五』がある。この年、治安維持法により、全国で数多くの共産党員などが弾圧される「三・一五事件」が起きた。小樽でも、二百人近くの労働者や学生が警察に捕らえられたという。
 このとき多喜二自身は、銀行に勤務していたが、仲間が拷問を受ける様子を、非常にリアルに描写していいる。拷問前のおびえや、肉体の痛みが、なまなましく書かれていて、読むだけでも、息が苦しくなってくる。この小説によって、多喜二は若きプロレタリア作家として注目されるようになった――そして後に多喜二自身も拷問を受けることになる。
 あとで気づいたのだが、私が小樽に行った日は、「三・一五事件」から、ちょうど九十年後だったのである。不思議な偶然に、体がちょっと震えてしまった。
 多喜二の代表作といえば『蟹工船』である。蟹工船とは、蟹の漁をしながら、缶詰を作る船で、そこで過酷な労働を強いられる人々の姿を描いている。資本家は船を警護する海軍とも結びついており、労働者を奴隷のように使役する。その搾取の構造は、現代でもさらに巧妙な形で残っているのではないか、と論議になり、数年前に『蟹工船』が再ブームになったこともあった。
 私は、ドキュメンタリー的な小説という先入観があったのだが、実際に読んでみると、比喩表現の斬新さに驚かされることが多かった。
「納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な雨に降った。」
「霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目鰻のように延びて見えた。」
「ガラ、ガラッとウイスキーの空瓶(あきびん)が二、三カ所に稲妻形(いなずまがた)に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方向に向けて、目で瓶を追った。」
 納豆の糸のような雨、にちょっとショックを受ける。生活感がにじんでいて、それが海の見え方も変化させるのである。八ツ目鰻も不思議な比喩で、私は実際に見たことはないのだが、霧のなかにぼんやりと浮かぶ陸地の、ぬれぬれとした映像が浮かんでくる。
 空き瓶が、船が揺れたために、稲妻形に落ちてくる、という描写もすごい。多喜二自身は、蟹工船に乗ったことはなく、調査して書いているのだが、目の前で見ていたような臨場感がある。
 『蟹工船』は一九二九年の作だが、その翌年に前川佐美雄の『植物祭』が出版されている。
  風船玉をたくさん腹にのんだやうで身体のかるい五月の旅なり
  耳たぶがけもののやうに思へきてどうしやうもない悲しさにゐる
 『植物祭』にも奇妙な感触の比喩はあるのだが、それは自己の身体に向けられている。そのため、自分の中に閉じこもるような印象が強い。
 『蟹工船』の比喩のおもしろさは、直観的な映像を、外部の物に対して投影しているところにある。自分の内部に生まれてきた妖しい幻影を、海や船内の風景に重ねることで、夢のような異様な世界を創り出していく。外側の世界を塗り替えていくような比喩であり、そこには現在でも刺激的な新しさがある。

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