八角堂便り

のど赤き玄鳥の「て」 品田悦一『斎藤茂吉』を巡って / 永田 淳

2018年5月号

 品田悦一著『斎藤茂吉 異形の短歌』(新潮選書)は刊行当初から面白く読んでいた一冊である。ただ、初読時から気になっていた箇所があって、今回読み直してもやはり引っかかるのでちょっと書いておこうと思う。
 品田は東京大学大学院教授で『万葉集の発明』などの著作があるように、古典文学、特に万葉が専門だが、茂吉にも造詣が深い。これ以前にも『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり―』(ミネルヴァ書房)があり、こちらも好著である。
 さて、私が引っかかった箇所は『赤光』の「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり」の一首について解説しているくだりである。「この一首を包む」「異様なまでに濃密」な厳粛感を生じさせている原因を「テキストに沿って見極めること」が肝要であるとして、あくまでテキスト本位で読み解こうとしている。(P 47 ~)
 品田は主に第三句の「ゐて」の「て」に注目する。助詞「て」で繋ぐ場合、三句目までと四句目以降が「並立の関係で、相互に時間的な隔たりはないもの」であり「上下を同時に見るなどという芸当は現実には不可能」なので「一首の構造は空間的・時間的に歪んでいる」といった解説を加えている(この歪みを品田自身は好意的に捉えていて、この歪みを理解できない者はゴッホも拙劣と見なすだろうと飛躍していて面白い)。
 つまり梁にいる燕と、茂吉の膝元で横たわっている母とを、まるでカメレオンのように、上と下とを同時に見ていないとこのような表現にはなり得ない、というのだ。
 われわれ歌人は通常、そのようなアクロバティック(のように見える)な解釈はしないだろう。私信に一~二首の歌が添えられていることがあるが、基本的に品田は歌人ではない。
 われわれはどちらかといえば「燕がいることによって母が死んだ」というような、ある種の原因と結果を繋ぐ助詞としてこの「て」を捉えがちで、歌会などでは「この〈て〉はちょっと変だよね」といった批評を加えそうである。
 あるいはまた、俯瞰的・複眼的な視点で作られた歌ではないか、といった鑑賞もこの一首では成り立つだろう。梁の上にいる燕の上から自身もろとも、燕、母を見下ろしている、しかしまた燕ののどの赤さも見上げている、というような。
 テキストに書かれていることを最優先に読むのが最も基本的な姿勢なのは間違いない。しかしそこだけに拘泥しすぎてしまうと、歌の持つ豊かな読みが削がれてしまうとも思う。
 ではあるが、学者側からのこういった読みも刺激的で示唆的である。付け加えておくと、品田の読みはかなり深く、教えられることも多い。

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