短歌時評

信頼の度合 / 濱松 哲朗

2018年5月号

 瀬戸夏子「非連続の連帯へ」(「現代短歌」三月号)と阿木津英「身銭を切る痛覚について」(砂子屋書房HP「月のコラム」三月一日付)を交互に読み、しばらく頭を抱えた。
 男性優位の社会構造とフェミニズムに関する文中で瀬戸は「短歌にかかわる状況について、どうしても納得がいかないことが多すぎるから批評を書くことを結局選んだけれども、本当は書かなければ、もっとじぶんじしんの短歌について手の内を明かさずにすんだのに、と後悔することさえある」と告白しつつ、「けれど、ここで(…)わたしは身銭を切ろうと思う」と書く。これに対し阿木津は、「文学というもの、芸術というものは、おのれ一個の現実体験のまっただなかから生まれてくるものである。特殊の井戸を掘って、普遍に通じていく。それを、文学的発想という。(…)おのが羽根を一枚ずつ抜く痛覚のまぼろしがどこかに残った言葉の織物、それが文学というものだ」と述べ、「昨今の比較的若い世代以下」の「『身銭を切る』ことを厭う感覚の蔓延」に思いを馳せつつも、「直接体験として告白しなくても身銭の切り方はいろいろある」「瀬戸夏子の文章は『身銭を切』ってくれたおかげでよくわかった」と記す。その上で阿木津は、瀬戸と同時掲載だった山田航や屋良健一郎の論もひっくるめて「この世代の評論は(…)共通して焦点がずいぶん近い」と指摘し、「二つの世代のアトモスフィアにもまた『分断』がある」と述べる。
 筆者は何より、阿木津が「身銭」の問題と評論の書き方の問題を、両者ともに世代的な分断に起因すると判断した点に強い疑問を感じる。例えば、「比較的若い世代」の側である屋良の「分断をもたらすもの~沖縄の現在~」(「現代短歌」三月号)で語られる「『来し方』の尊重」、「それぞれの『来し方』に思いを致すこと、表面化しない『不在』に気付き、掬い取ること」は、換言すれば互いの「手の内」を明示し、想像し、尊重し合うということであり、「身銭を切る」ことへのある種の肯定的(希望的?)見解とも取れる。山田の「『貧困の抒情』のために」(同)も、自歌自注すら含んだ身銭の切りっぷりだ。「身銭を切る」行為に対する価値観の違いは何も世代によるものではない。「手の内」や「身銭」への忌避の要因は、論作が相補的に作用することで作品の読みが決定づけられるという、作者主導の読みの構築への警戒心から来るものではないか。
 若手の文章を「焦点がずいぶん近い」とする阿木津の懸念は恐らく、彼らの文章が「おのれ一個の現実体験」よりも自分たちの置かれた状況や構造の指摘や分析に比重が置かれている点に起因する。阿木津にとって、自己・・とは文学的発想における「特殊/普遍」の「特殊」側に属するものである。「人間の能力というものは、いつでも、どこでも機会さえあれば芽生えるものだし、ひとたび芽生えたら力強い」と記す阿木津は個人の自由・・・・・を在って然るべき自明の権利として捉えている。一方、「比較的若い世代」の自己・・は「男性優位構造」や「相対的貧困」や「基地」といった既存の構造・・・・・に最初から否応なしに巻き込まれており、個人の自由・・・・・は構造側の都合で容易に奪われたり、与えられなかったりする。結局、この対立構造は、世代的な分断や、実存主義的態度と構造主義的態度の対立の亜種であるより先に、個人の自由・・・・・に対する認識や価値観の相違によるものではないか。瀬戸・山田・屋良の論も、根底にある個人の自由・・・・への信頼の度合や、結論として書かれる実践への志向は三者三様であるように、筆者には読めた。
 正直な話、筆者は「人間」や個人の自由・・・・に関してあまり楽観視出来なくなっている。諦めてはいない。ただ、現実・・が酷すぎる。

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