百葉箱2018年5月号 / 吉川 宏志
2018年5月号
廃村の木にて染めたるスカーフの三十年後のやわき手ざわり
村瀬美代子
もう村はないが、染めた色だけはみずみずしく残っている。時間の不思議さが押し寄せてくるような歌。全体に音の響きが快い。
ボールペンの黒のインクが糸を引く 日記にはまた「憎い」の二文字
田村 穂隆
下の句の感情表現は素朴であるが、上の句の描写が鮮烈で、読者に食い込むような歌になっている。
耳たぶに軽く触れつつ読書するあなたの癖がわたしに遺る
林 加奈子
上の句からなだらかに読んでいると、結句に来て「あなた」が亡くなっていることを知る。具体性が効いていて、静かな哀感が満ちる。
雪の日のぶどうの棚はほの暗く樹液の眠る枝を切りゆく
齋藤 弘子
実際に見たら何でもない光景なのだろうが「雪の日のぶどうの棚」と言葉にすると、美しく聖なる感じがする。「樹液の眠る枝」も印象深い。
動くなと言われし機銃掃射の日道に擬態して道になる人
岡崎 五郎
戦時中の忘れられない記憶なのだろう。「道に擬態して」が奇妙なインパクトのある表現で、結句も夢の中のような恐ろしさを湛えている。
もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる
中井スピカ
暴力的な言葉が行き交う職場で、何もできず、自分の仕事に閉じこもるしかない。下の句のこまやかな動作が目に見えるようで、息の苦しさが伝わってくる。
在川(ざいかわ)に鮒の泳ぐを知つてゐるこずゑに芽吹く花あることも
式田 昭二
簡潔な文体で春の到来を歌い、日本画のような味わいを生み出している。「在川」という固有名詞や、「知つてゐる」の口語の響きなどが、うまく組み合わさった効果なのだろう。