短歌時評

無抵抗の不用意さ / 濱松 哲朗

2018年4月号

 山田航による歌壇時評「もはや抗えないもの」(「短歌」二〇一七年七月号)が波紋を広げている。実際の傷害事件に取材した目黒哲朗の連作「生きる力」(「歌壇」二〇一七年二月号)について山田は、目黒の文語旧仮名表記が「作者が以前からとっているスタイル」であると認めた上で、次のように記す。
 現実の事件に取材をしているわけではない非リアリズムの歌であれば、一種の「言
 葉のコスプレ」として許容される余地が十分にある。(…)目黒の作品にのみ「こ
 れは受け入れてしまってはいけない気がする」という感情がとりわけ強く兆したの
 は、やはり現実の事件を題材としていて、さらにその事件が作者にとっても心を強
 く揺さぶられた重大な経験であるというリアリティがよく伝わってきたからであ
 る。だからこそ、嘘くさい文体にしてほしくなかった。現代短歌のリテラシーを発
 動させる以前に、同時代に同じ社会を生きる個人としてのシンパシーを発動させて
 しまったのだ。短歌用語をあえて使うなら、本来裸形の〈私〉を見せてもいいはず
 のところなのに、文体のせいで〈私〉がぼやけてしまっている。

 山田が言うように、文語も旧仮名も既に「現実」で使われる言葉ではない。文語や旧仮名を「言葉のコスプレ」「中二病の文体」等と呼ぶ山田の発想の根底には、「今となっては口語新かなで現実を叙述する文体に込められた思想体系の方が強固になって」おり、文語も旧仮名も現代では「言葉を虚構化する装置」でしかなく「それを採用している限りマイナーポエットから脱却することは出来ないと確信している」という、強い問題認識がある。
 ただ、「リテラシー・・・・・」の語が示すように、山田の主張に時折読者論的見地が差し挿まれている点に注意したい。山田が「問題は、文体が持つ意味合いが時代と共に変質することに気づかないことだ」と述べる時、可変的で流動的な「現代」や「現実」を方向づけ、決定づけているのは、不特定多数の読者( ≒他者)側の動向ということになる。「未来山脈」一月号に寄稿した大辻隆弘は、「世間が口語化するのだから短歌が口語化するのが当たり前だ」という「現状追認の姿勢」を山田の時評から読み取っている。マジョリティの力や構造に対して「もはや抗えない」と述べてしまうことは、結局は文語や旧仮名をマイナーなものと見なし、マイノリティの側に陥れようとする力に加担することに繋がる。
 「井泉」一月号に寄稿した野口あや子は、口語と旧仮名の組合せに「エキゾティシズム(異国情緒)」を見出していたとする山田の過去の文章(「歌壇」二〇一一年九月号)を引きながら、「自身の表現がある領域で異物化されてこそ輝くという逆説も計算済みであるはずだ」と指摘する。「現実とミスマッチ」で「エキゾティシズム」の源であると認識していた文語や旧仮名に対して、何故今になって「リアリズムの喪失」を指摘するのか。仮に「現実」に取材したところで、言語表現に顕在化する世界は「現実」とイコールではない。そもそも、短歌は、文学は、「現実を叙述する」ことが目的なのだろうか。「短歌」一月号で藪内亮輔は「本当にリアリティを感じたかったら、散文や動画、漫画などで享受した方がずっといい」「短歌をする時点で『コスプレ』なのだ」と書く。もしここで「現実・・に近い手段・・・・・として口語や新仮名を選択しても、それは言語表現を現実の出来事の再現・・として捉えようとする旧来の文学観の焼き直しでしかない。
 結局、山田は作者の「実感」を読みにおける唯一の正解として扱った上に、「現実」と作品世界との間に上下関係をも作ってしまった。この不用意な論理も、「時代」のせいなのか。

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