青蟬通信

『中動態の世界』を読む / 吉川 宏志

2018年3月号

 年末年始の休みには、ふだん読めないような長めの本を読むようにしている。今年は、話題になっていた國分功一郎『中動態の世界』を読んだ(小林秀雄賞を受賞している)。読んだ後に、世界の見え方が変わってくるような一冊で、炬燵の中で夢中になって読んでいた。
 現在の文法は、能動態と受動態で大きく区別されている。「私が行う」(能動)か「私が行わされる」(受動)か。筆者はそれを、責任を問うための言葉なのだという。
 これは分かる気がする。子ども時代の出来事を思い出した。小学校で、宿題のプリントが消えてしまったことがあった。先生に、「プリントがなくなりました」と言った。すると先生から、「その言い方はおかしい。〈プリントをなくしました〉と言いなさい」と叱られたのだった。自分に責任があることを、言葉によって意識させる。ああ、教育とはうまくできているな、と今更ながら思った。
 ところが、古代のインド=ヨーロッパ語には、能動態・受動態の対立はなかった。その代わりに、能動態・中動態という区分が存在していたという。
 では中動態とはどのようなものか。その説明は非常に複雑なので、詳しくは本書を読んでいただくことにして、印象的な例を引用しておく。
 「馬をつなぎから外す」ということを、かつての能動態で表現すると、馬を外した人ではなく、別の人が馬に乗ることになる。家来が主人のためにつなぎを外した、というニュアンスになるのである。ところが中動態で表現すると、つなぎを外した人がそのまま馬に乗ることになる。自分が行為を最後まで行うことを表す。
 つまり、かつての能動態は、自分が行為の外側にいることを表し、中動態は自分が行為の内側にいることを示していたのである。
 こういう区分は、一見無意味なことのように思える。ところがそうではない、と筆者は論じていく。
 権力によって何かをさせられることがある。現在の日本では、政治家を忖度して役人が文書を破棄する、なんてことがあるが、これは自分でやっているのか、やらされているのか。能動・受動という区別が難しい事例は多い。そしてどのように責任をとればいいのか、迷わされてしまう。
 しかし、かつての能動態・中動態という表現だと、それが明確に書き分けられる。自分が他人にやらせる(外側にいる)ときは能動態であり、自分自身がやっている(内側にいる)ときはすべて中動態である。過去の文法では、権力関係が明示されていた、と言ってもいいのだろう。
 國分功一郎氏は、日本語の他動詞と自動詞の関係にも、能動態と中動態の関係に似たものがあるのではないか、と述べている。
 他動詞とは「……を」(対象)が必要な動詞で、自動詞はそれが不要な動詞と説明される。「私は山を見る」(他動詞)、「山が見える」(自動詞)ということになる。確かに「……を」という対象が必要、ということは、行為の外側にいる、という意識が存在すると言っていいのかもしれない。
 永田和宏さんの最新歌集『午後の庭』を読んでいたら、
  死なれるは自動詞にしてかつ受身 あなたに死なれてしまつた すすき
という歌があって、びっくりしてしまった。『中動態の世界』を読んで作った歌なのかな、と一瞬思ったのだが、刊行以前の作のようである。
 これまで書いたことを踏まえて言えば、「死なれる」という言葉を使うとき、自分は死の内側の世界に居るということなのである。他動詞、たとえば「妻を亡くす」という言葉を使えるなら、外側から死を見ているということになる。
 大切な人の死は、自分を能動にする力を失わせる。そして、ずっと内側に閉じ込められてしまうような経験なのである。それを、言葉のあり方によって感じているところが、繊細であり、深く考えさせられる。
 最後にそっと置かれた「すすき」に哀感がある。ずっと内側にこもっていたが、ふと目を上げたとき、すすきが揺れているのが見えた。そんな感じがする。外界からの光が、わずかに差し込んでいる。

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