青蟬通信

最近の歌集四冊 / 吉川 宏志

2018年1月号

 昨年の秋から年末にかけて、重厚な歌集、充実した歌集がいくつも刊行されたように思う。しかし、私の生活が多忙になってしまい、十分に読み切れていない感がある。ほんとうはもう少し考えを深めて書いていきたいのだが、今回は、短評のような形で紹介していくことにする。
  ひと握り砂のこるとぞ津波死は火葬後かならず肺のあたりに
                             遠藤たか子『水際』
 作者は福島県南相馬市の人で、津波とともに原発事故も間近に体験した。私は二〇一三年三月に、遠藤さんに被災地に連れていっていただいたことがあり、そのときに見た津波跡の風景も思い出され、とても印象深い歌集であった。
 この一首は事実のみを淡々と歌っているが、なまなましく迫る恐ろしさがある。ほかにも、
  湿らせし二重マスクの苦しさに二時間以内に故郷見巡る
  住める場所住んでもよい場所住めぬ場所自在に行き来す鳥けものらは
など、原発事故後の日常をリアルに歌った作に注目させられる。
  砕石工場撤去されたる空地には足跡によれば羚羊(かもしか)もくる
                          山田富士郎『商品とゆめ』
 この歌集には、地方の経済が衰退することで、自然が戻ってきた風景がしばしば歌われている。羚羊が生きているのは嬉しいことだが、それは東京一極集中の裏返しの現象である。自然に親しみつつも、現在の日本のありかたに批判的な目を向ける、複雑な思考が一冊を通してずっと貫かれている。それがこの歌集のおもしろさであろう。
  一枚の田にせきれいの鍵をかけ飛びさりしのち春の雪ふる
 自然詠でも、人工物が混じるような独自の発想をしている。この歌は田を扉に、セキレイを鍵に見立てており、ユニークな美しさがある。
  傍点は著者によるとありこの場合著者とはアドルフ・ヒトラーである
 『わが闘争』を読んでいるわけであり、当然のことなのだが、このように歌われると、何か不気味な感覚が伝わってくる。
  わが裡のしづかな津波てんでんこ・・・・・おかあさんごめん、手を離します
                             川野里子『硝子の島』
 「津波てんでんこ」とは、津波に襲われたときは、自分の身は自分で守るしかない、という言い伝えである。他の人のことは放って逃げるしかない、ということも含まれている。老いた母の介護に疲れ、見捨てるしかない状態に追い込まれた苦しみが、鮮烈に歌われている。結句の口語が悲痛である。
  人体は止むことのなき吹雪なり気管切開「する」に丸せり
 母の手術の同意書に丸をつける場面だろう。上の句の比喩により、単なる記録ではなく、詩として歌おうとする意志が伝わってくる。
  子の寝顔見れば苛立ちしづまるを我は知るなり人より遅く
                           宇田川寛之『そらみみ』
  補助輪をつけて娘は疾駆せりそのあとを追ふわれの小走り
 中年になって父になった喜びと淋しさが混じり合い、陰影のある歌集である。「人より遅く」という思いは、歌集全体から響く主調音にもなっている――この本自体も、発刊が非常に遅くなった第一歌集だった。子の「あとを追ふ」思いもそれに通じているだろう。しかし遅れることで見えてくる風景もあり、苦みのある美しさを生み出している。
  花水木はじめて見る子を抱きつつ五月の空のした抜けられぬ
 まだ何冊か、取り上げたい歌集があるのだが、紙幅が尽きてしまった。
 最近の短歌雑誌や新聞などの時評を見ると、歌集を取り上げずに、イベントの紹介や、誰かの発言を中心に書かれていることが多いように思う――あくまで印象だが。私はもっと歌集を読み込むことで、現在を捉えていってほしいと願っている。良い作品は生まれているのに、深く読まれていない。活発に論じられてもいいのに、一定の時間が過ぎると取り上げられなくなり、忘れられてしまう歌集が多いのではないか。

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