八角堂便り

吟行のすすめ / 三井 修

2018年1月号

 俳人ほどではないが、歌人も吟行なるものをよく行う。塔でも秋には各地の歌会で吟行が行われているようで、それらの報告が「方舟」に掲載される事がある。
 一般的には、予め指定された場所と時間に集まり、そこで幹事から簡単な説明があり、詠草用紙(普通は短冊形に切った白紙)を受け取り、一旦解散する。各自数時間付近を散策して、歌を作る。一人で散策する人もいるが、何人か一緒に散策しながら、時々、手帳にペンを走らせたりしている。その後再度集合し、幹事が詠草を集めて一覧に纏めてコピーを取り、歌会を行う。そして、その後は当然ながら「懇親会」がある。吟行場所は、近くの神社仏閣や公園のもあるし、泊りがけで地方へ行くのもあるようだ。
 吟行が得意な歌人と不得意な歌人がある。普段は素晴らしい作品を作るのに、吟行の作品は凡庸だったり、その逆だったりすることがあるから面白い。また、吟行に自信のない人は前もって一人でその場へ行って、予定作品を作ってきたり、逆に、自分の吟行作品に満足しない人は、後日そこへ再度行って、作り直すという真面目な人もいるようだ。往々にして感じることは、まるでそこへ行ってきたというアリバイ証明のように、そこの地名を入れた作品が多いということである。それ自体は悪いことではないだろうが、それがルールであるかのような印象を受けることがある。少なくとも吟行会での歌会では、どこで作ったかということは全員が知っているはずであるから、敢えて地名がなくてもいいだろうと思う。私がそう言うと、「地名を入れておかないと後でどこで作ったか分からなくなるから」と言う人がいるが、吟行会では後に残す歌というよりも、その場にいる人が分かる歌でいいのではないかと思うが。
 吟行会では気の合った仲間達と日常とは違う空間を共にする。珍しいものを見たり、食べたりすることの喜びである。そこでいつもの歌会では見られなかった仲間の一面を見たりして、更に親交が深くなることもあるだろう。
 作歌の面から言えば、空間と時間をほぼ同じにして歌を作るということに意味があると思う。同じものを同じように見ていながら、その視点に違いがあることに気がつかされる。ああ、あれは自分も見ていたのだが、意識の上で通り過ぎてしまい、歌にはしなかった。それをこの人はきちん凝視していたのだ、とか、或いは、自分も一応は歌にしたが、ただその表面しか歌えなかった。しかし、この人は同じ素材を歌っていて、自分には思いもつかなかった視点で詠んでいる、対象の深い所にまで視線や思いを及ぼしている、というような思いを抱かされることがある。そんなことがあるからやはり吟行会は愉しい。吟行会を行っていない歌会も是非検討してみてはどうだろうか。

ページトップへ