八角堂便り

筬を離しぬ / 小林 幸子

2017年12月号

 「塔」十月号に荻原伸の「杉原一司のめざめ―〈メトード〉前夜―」が掲載された。自身が発掘した新資料によって、一司の「メトード」に繋がる目覚めを考察する力のこもった論である。
 これまで杉原一司は、塚本邦雄の『水葬物語』の献辞や、前川佐美雄の丹比への疎開を引き受けた弟子として知られてはいたが、一司自身を対象としての研究書や評論は読んだことがない。
 地元の鳥取で杉原一司が語られることの意味は大きい。この評論を誰よりも喜ばれただろう杉原令子さんは、二〇一六年十一月に亡くなっている。
 二〇一一年秋の琴浦町での令子さんとの出会いについては、十二年四月号の「八角堂便り」に書いたが、「一緒に若桜(わかさ)鉄道に乗りましょう」というそのときの約束は果たされぬままになった。
 「杉原一司のめざめ」の年譜に、一司が安部国民学校に勤務していたとき安藤令子と出会い結婚したと記される。
 一司との出会いについてたずねると、令子さんは笑って応えなかったが、国民学校の同僚だったのだ。多分令子さんが先輩で、若い一司をなにくれとなく助けたのだと思う。一九四五年、一九歳の一司と結婚、丹比村の一司の生家に住む。
 それからの歳月は一司の年譜から浮かび上って来るだろう。
 そして一九五〇年五月二十一日、二十三歳九か月という若さで一司は旅立つ。
 塚本慶子歌集『花零れり』に杉原一司への挽歌が収められている。
   昭和二十五年五月杉原一司様逝去
  はじめて見(まみ)えたる日のみ額の光はや青葉重くなりぬる
  誇り高きみ魂なりしとみ葬りの日をけぶる雨に濡れて在り経き

 杉原一司の葬儀に参列した塚本慶子の歌には杉原一司の逝去を悼む思いが滲む。
 塚本邦雄の盟友としての杉原一司としてではなく、「誇り高き」魂を持った若い歌人・杉原一司の逝去を惜しんでいる。
  とほき痛手(いたで)に更におりこむごときもの耐へかねて筬(をさ)しばし離しぬ
                                杉原 令子
 
 清田由井子著『歌は志(し)の之(ゆ)くところ』で出遭った一首。塚本邦雄『殘花遺珠』から引用されている。「一司の急逝後、杉原令子は、ふっつりと短歌という糸を断ったのであった」と記されている。
 令子夫人が短歌を作っていたことを私は知らなかった。一司は安部国民学校の同僚の影響で短歌を作り始めたとされる。安藤令子も職場での短歌の仲間だったのかもしれない。
 歌をつむぐことで「とほき痛手」をやりすごしてきた歳月に、夫一司の死というさらなる悲苦がおりこまれる。耐えかねてついに歌を織る筬を離してしまう。
 魂の慟哭を鎮めた深い断念の歌に杉原令子というひとりの歌人を想った。

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