早稲田文学増刊「女性号」と今橋愛連作「そして」について / 花山 周子
2017年11月号
九月に早稲田文学増刊、川上未映子責任編集「女性号」が刊行された。電話帳のようなぶ厚さである。これで、二、二〇〇円。現代の女性作家による詩、小説、翻訳もの、写真や対談、座談会、俳句、短歌のほか、茨木のり子や葛原妙子などの採録も入っている。川上未映子自身による「巻頭言」がとてもいい文章で、ぜひ全文読んで欲しいと思うのだが、ここでは、その一部を紹介する。
仮に女性というものに定義を与えることができたとして、そのうえで女性をテーマ
にすることにどのような意義があるのか。性別二分法を容認し、より閉塞感を強め
ることになるのではないか。(略)女性が女性について語るのは退行ではないの
か。問題はいつでも「人間」ではないのか。
しかし、それでもなお、女性というものは存在しています。女性一般というもの
がなく、また、それがどのような文脈で語られるにせよ、女性は存在しています。
ここで川上が言及する、閉塞感を強めるのではないか、退行ではないか、というような危惧は、この一冊の量そのものが、突き返し、この本気の量こそが、女性にとどまらず、誰しもがそれぞれの場所から打ち明ける空間を創出したように私は思った。確かに女性は存在し、しかもそれは、一つのものではない。この一見、当たり前のような真実が、個々の作品によって指し示されるところにこの一冊の価値がある。作品はそれ自体ひとつの具体であり、すぐれた作品は決して何かに還元できるものではないのだ。そう強く思わされた作品のなかに今橋愛の連作「そして」がある。
(※今橋短歌は多行書なので/で表記する。)
若い娘時分『ひきこうもり(妖怪)』まではいかないにしても、まあまあ閉じていた時期に、近所を歩けばベビ
ーカーを押す、子乗せ自転車でがんがん行く、それらママたちにくらべて圧倒的に役がないとがっくり落ちこむ。
それが長いことわたしと地元との距離感だった。
・子を持つ気も/持てる気も全然しないこころで/あのころ/いばしょ なかった。
女子に男子ほど「ひきこもり」の数が多くないのは、「女らしさ」と「ひきこもり」の区別が曖昧だからです。
〔中略〕専業主婦は「合法的ひきこもり」かもしれません。(『オンナさしさ入門(笑)』小倉千加子)
正直わたしは たすかっている。
・生協の個配の発砲スチロールを/家の中に引き入れたら/ひとり
冒頭部分を引用した。今橋は決してはちゃめちゃなわけではなく、ごく真っ当な回路が作品の下敷きになっているのがわかる。しかし、それが、一般的な話として上滑りしない。彼女の言葉は寧ろ通俗的なところからそこにある本当を繰り出す。通俗的なものを直観に還元する。意味のなかに生きた直観が働いていることで言葉は、はだかになって、届く。
たとえばジェンダーの問題を倫理や正しさから訴えても、それは他者を強制することにしかならない。それに、女性に限らず、人は誰しもが、その場所でのマイノリティーとして生きている。女性一つをとっても生まれてから今に至るまで、教育や恋愛や、子を持つこと/持たないこと、主婦になること/働くこと、それぞれの場所でそれぞれがマイノリティーでもある。それは比べられるものではなく、ある意味で自分で引き受けることしかできない。けれど、自分がここにいると打ち明けることはできるのだ。
詞書きを多く含む今橋の連作は、彼女のこれまで生きてきたところから直に書き出されていく。全部を読んでいただかない限りこの感触を伝えることは難しいのだが、その連なりは、今橋愛以外の誰にも還元できない一人の女性の歴史なのだ。それを打ち明けられたことで閉ざされていた何かが確かに開く。