短歌時評

染野太朗歌集『人魚』 アウトラインと空洞 / 花山 周子

2017年9月号

 モノを言葉のディティールによって削るとき、そのモノは観念へと移行し現実
 から乖離する。(砂子屋書房HP「月のコラム」)
 前号で紹介した内山晶太の文章である。染野太朗の歌の「扇風機」にはこの乖離がない、という文脈で書かれているのだが、ここでの「削る」という表現は少し特殊であると思う。私はたとえば、アンティークの家具などで、細かな彫りが施されていると、その装飾が家具の全体性、カタチを見えづらくする。この「削る」をそんなふうに解釈した。そして、この内山の表現が画家や彫刻家的であると感じた。染野の歌は、フィジカルな批評言語を引き出すところがあると思う。
・冬の花舗に店員らみな着膨れてばちんばちんと切りつづけている
という歌に触れても、内山は「染野作品は太いマジックで書かれているようなイメージがある」と指摘する。私も全く同様の印象を前歌集『あの日の海』から感じてきた。さらに言えばモチーフのアウトラインだけが強く引かれているような印象があるのだ。一首レベルでもそうなのだが、歌集全体から受ける印象はさらに強いものがある。
 この歌集のなかではいくつかのほぼ同じ構文が執拗に繰り返される。
・地下駅の一番深い場所だった割れたメガネが落ちていたのは
・鳩でしかない鳩である撒かれたるたまごボーロを追っているのは
・ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ
・ココナッツオイル頭皮にこすりつけ目を閉ずる夜 これが祈りだ

 たとえばこの構文そのものが、幾度も引き直す習作デッサンのように、染野の抱えるモチーフのアウトラインとして見えてくるのである。こうした執拗な作業のうちに歌集一冊の作家的全体性があるのではないか。特に目立つのは「落ちていたのは」のような言い方や「~だが」といった、逆説や否定によって違和感が前景化する構文だ。主体の持つ違和感がまるでライトのように対象の輪郭を浮き上がらせる。実体のあるものばかりではない。感情を詠った歌についても、
・さびしさが地蔵のように立っている怒りがそこに水を供える
のように、その感情の中身ではなく、アウトラインが引かれる。右の歌などに触れ、濱松哲朗は、「ここで突沸する感情は〈私〉にとって、今ここで生起し続ける現実との、終わりなき触れ合いの成果なのだ(塔五月号「歌集・歌書探訪」)」と書いている。ここでも染野の歌の執拗さが語られていて、興味深い。
 アウトラインが強く引かれるとき、現象としてその内側は空洞化するように思う。また、染野のアウトラインは、内部の際というより、外部の空間から型取られたように見える。染野にとって対象は常に抵抗体としてそこにあり、その内側に踏みこむことができないのではないか。染野の歌からはその無残さのようなものが強烈に発光してくるのである。
・尾鰭つかみ浴槽の縁ふちに叩きつけ人魚を放つ 仰向けに浮く
 [※一字空けでしたので、訂正いたしました。]
は、ある意味でその空洞と無残さとが形象化されたような印象を持つのだ。
 この歌集を読みながら私が感じていたのは、もうどこにもいない人の手記を読んでいるような感覚である。とても感受性の強い〈ぼく〉という主人公がいる。そしてその〈ぼく〉が照射する鮮明な輪郭線が浮かび上がるとき、〈ぼく〉は空洞化する。この〈ぼく〉の不在こそがこの歌集に濃い輪郭を齎している。
・青天のけやき公園プールにて二〇一一年八月も日焼けす

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