塔アーカイブ

2005年(誌面未収録)

 
永田和宏講演「オノマトペの面白さ」
 
(2005年3月20日、「塔」東京支部大会) 記録:干田智子
 
 丁寧なご紹介をいただきました。すごいですね、今日お彼岸って知らなかったけど、何か昔の塔の全国大会の二倍ぐらい人がいるのかな。花山さんもそうだし、辻井さんもそうだけど、僕らが塔の全国大会行き始めたころっていうのは、僕が初めて富山の入善へ行ったときって二十数人でしたね。で、多いときで四十人ぐらいじゃなかったかな。今日八十人いるんだって、だから本当に昔の塔の全国大会の二倍ぐらいの人が来られた。すごいなあと思っています。だんだんと人の名前がわからなくなるので、この前ちょっと朝日に紹介されたよね。人の顔を覚えるのがすごく苦手なので、済みませんが、皆さん、名札と顔とを後で見比べさせていただきたい。今日はできるだけ顔を覚えて帰りたいと思っています。
 
 今日は話を最初にせいということで、短く歌会に差し支えないようにということなので、どこで終わってもいい話題にしようと思ったので、オノマトペの話をしようと思います。昔から私の話は作歌の役には立たないという話をずっとすることにしてたんだけど、このごろだんだんと聞くとすぐ歌がうまくなるというふうな話に変わってきまして、今日は、まあオノマトペの歌っていうのは読んでるとすごく楽しいので、別に何かを言うということじゃなくて、今日はこんな歌もあるよという紹介をしようと思っています。ここに歌が幾つも挙げてありますけれども、全部紹介する気はないので、適当に時間が来たところでやめようと思います。最後の方の私の歌で紹介しようと思います。
 
 オノマトペっていうと、まあ擬音語、擬態語すべて含めて一般にオノマトペというふうに言いまして、歌の中ではまあまあ重要な歌を作るときの一つの方法と言われていますね。意外とそれについて書かれた本というのはあんまりないんですね。ただ、飯塚書店からオノマトペをタイトルにした作歌指針みたいな本が出ています。それにいろんなオノマトペを使った歌が出ていますけども、それ見るとね、一番最初に、特に鳥の声とか物の音、擬音語と言われるものを観察します。よく耳を澄まして聞きなさいとかね、よく耳を澄ましてよく観察をして、でこういう音がその声に一番よく合うような音を持ってきなさいと書いてあるんですね。これね、多分違うと思うんですよ、僕。鳥の声でも何でもよく聞いたからっていいオノマトペ、いい音が浮かんでくるもんじゃなくて、オノマトペってね、何かリズム感とか音感みたいなもんで、聞いた瞬間にぽんとどこかに意識が飛んじゃって、あ、こんな音と思うそこの飛び方が大事なので、あんまり観察してできるもんじゃないなあというのが僕の実感ですね。これは一度NHKのときにタイトルにしたんですが、そのときのタイトルは「えいっとオノマトペ」というタイトルに。えいっと思って、この音にしようと思って作らないとなかなかできない。観察してできるもんではないというふうに思いますね。

 実は大橋さんに呼ばれて、来月でしたっけ、四月でしたっけ、宮島に今度行って、そこでやっぱりオノマトペの話しようと思っているんで、できるだけ重ならないように話をしようと思います。ただ、オノマトペって話しやすいんです、結構おもしろいんですよ。今日ここに一部紹介しますけれども、ぜひ自分にこんなおもしろいオノマトペっていうのがあるという人は後でちょっとこっそり僕に教えてください。宮島のときに使います。
 
 最初岡野さんの歌から紹介します。これはですね、『飛天』という歌集の中にあって、非常におもしろい、思い切った歌だと思うんですよね。
 

  ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう
                   岡野弘彦『飛天』

 
 「ごろすけほう」ってご存じのようにフクロウですよね。「ゴロスケホッホッ」て言って、それを「ごろすけ奉公」、「奉公する」の「奉公」に変えたりね、いろいろ聞きなしているわけで、これも聞きなしの歌でもありますけれども、「ごろすけほう」、まあこの聞き方は一般的なパターンだと思うので、ここの特殊さはあんまりないですね。ただ、この一首はすごいなあと思ったのは、言ってるものは何もない。「こころほほけて」「しんじついとしい」、これしか言ってない。「こころほほけて」と「しんじついとしい」しか言ってないんだけど、その雰囲気ってよくわかりますね。誰かを思っている、夜の深みでいとしい人がいる。これ実は岡野さん大分後の歌なので、本当はあんまりだな。恋の歌ではありますけども、岡野弘彦さんという人は、歳をとっても相聞歌、恋の歌が作れないと歌人はだめだと言い続けている人で、それを守りながらずっと恋の歌作っておられますけども、この歌も恋の歌、夜の深みでひとりこう思う人を思っている。とにかくいとしくてしようがない。心がほうけるほどにいとしいと思うというそういう歌です。そのときに森の方で、恐らくフクロウが鳴いている、その音が割と低い音ですね、甲高い音じゃなくてね。闇の中に消えていくようなそういう響き、闇の中から滲み出してくるような響き、そういう音が聞こえている。その中で人を思うという、それだけで、ただほかには何も、どういう人が恋しいと思っているのか、その人はどうであるのか、あるいはどんなふうに恋しいと思っているのかなというの全くなくて、要するに心がもうまとまりなくて、ぼあーんとこう自分の中から出ていきそうで、とろけていくようで、しっかりこう自分に形を持っている心っていうのがあると、それがぼあーんぼあーんともうほどけていくように人をいとしいと思っている。そういう歌ですね。
 
 これは、これだけなかなか思い切っては歌えないですね。オノマトペの歌っていうのは結構あって、一句の中の一部に使うというのはいろんな歌があると思う。多分ね、この中におられる方でも一回ぐらい使われたと思うんですね。ただ、ここまで思い切ってオノマトペだけで一首を成り立たせようという、すごい力技だなと思いますし、これぐらい思い切っても歌っていうのは思いを支えてくれるんなだなあというのはかえって驚きですね。我々三十一音をいかに効果的に使おうかと思うわけでしょう。いかに言葉を節約をして、いかにまとまりのいい、端的に述べられる言葉で自分の思いを相手に伝えようかと思うわけだけども、これ全く逆で、もう何も要らん、ただ「ごろすけほう」と「しんじついとしい」というこの二つだけで歌を成り立たせちゃおうというわけだから、とんでもない力技で、なかなかこういう一首を作ることはできてもね、出すことはできないんだけど、これはそこまでやった強さですね、ちょっと参りましたという感じね。
 
 まあ聞きなしですよ、これね。聞きなしってね、日本人にしかできないんですってね。西洋人には聞きなしというのがないんだそうです。鳥の声とか虫の音とか、そういうものをいろいろな、例えば「てっぺんかけたか」とかね、ホトトギスは「てっぺんかけたか」そんな言葉、「ブッポウソウ」と言ったり、ブッポウソウは茂吉のあれにありますけど、「ブッポウソウ」とかそういう音を何かの言葉に置き換えて聞きなすという、これは日本人にしかできないんだっていうのを奥本大三郎という昆虫をやっている男が言ってましたけども、日本人そんなあれがあるんだから、どんどんこういう聞きなしの歌があってもいいなあというふうに思います。
 
 どれからやってもいいんですが、小中英之の、これもとても好きな歌で、有名な歌ですけども、
 

  鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ
              小中英之『翼鏡』

 
 これは擬音語ではなくて擬態語でしょうね。桃の花が開いている、桃って全体が何ていうかな、一個一個の花を見ると割とけばけばしい花ではあるんだけども、遠くから桃の木を見ると、どこかぼやけて、輪郭ははっきりしないで、桜の見え方とも全然違いますしね。桜は一面に流れ、まあ一面に花を流しているような、こういう咲き方をする。桃の花って割とはっきりしてるんだけども、広がっていくと、どんどん膨張していくという、そんな感じの咲き方をするので、小中英之はそれを非常にうまくとらえて、「ぼあーんぼあーん」と言って、そこはとてもいいんじゃないかな。この歌で成功しているのは「ぼあーんぼあーん」というよりも、むしろ二つ目の「村の東西南北に」という言い方、それがすごいと思いますね。「鶏ねむる」はどちらかというと枕詞みたいに使われてて、この「鶏ねむる」の位置もおもしろいと思うんですよ。鶏が本当に寝てるんじゃなくて、鶏も眠っているような、村全体が眠っているような、その村の東西南北にってね、もうあっちにもこっちにもこう広がって、村全体に桃の花が満ちているという、そんな感じがこの一首はしましてね。「東西南北」という歌集もありましたけれども、この「鶏ねむる村の東西南北に」という言い方はとても印象深い歌だと思います。
 
 最初に、時間が来てもいいように、白秋から先やりましょう。北原白秋ってオノマトペのすごい多い歌人ですね。近代歌人の中でも特に多いというか。斎藤茂吉は白秋と双璧ですけども、茂吉はオノマトペ少ないですね。あるんですよ。あるんだけど、茂吉のオノマトペってあんまりおもしろくないですね、オノマトペ自体は。「あかあかと」がありますね。「あかあかと」、それから茂吉の好きなのは「しんしんと」ですね。そういう幾つもの歌がありますが、例えば「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」、これは「あらたま」の歌ですけども、代々木練兵場で夕日を見たときの歌ですね。「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」、非常に格調高くて、茂吉の代表歌の一つですけども、この「あかあかと」自身は、一首の中ではとてもいい機能してるけども、オノマトペとしてすごいおもしろいという感じではない。「しんしんと」っていうのも、「遠田のかはづ天に聞ゆる」ね、「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」という、これも茂吉の有名な歌がありますけども、これも普通の使い方と言えば使い方ですね。
 
 今日もね、オノマトペとか擬態語、擬態語のは、擬音語っていうのは不思議なもので、「しんしんと」っていうのはね、何で「しんしんと」になったのかようわからんです、実は。だって、音がないわけです、しんしん。音がないという状態を表すのに音をもって表す、これは考えてみると本当は矛盾しているんですが、「しんしんと」って言われるとなかなか、確かに音がないことを感じがしてきますよね。例えば、「かーんとした静寂」っていう言い方ですね。言われたって何で「かーん」になったのかようわからん。「しんしんと」はね、「深い深い」という字を書きます。それから、漢語的に使うときは「沈む」という字、「沈沈と」というあの字を使うこともあって、「深い」という字と、それから「沈む」というときはちょっとニュアンスは違うんですけども、それは考えてみれば本当に不思議で、何も音もない状態を表すのに何で「しんしんと」という音を持って来られると音のない状態がイメージできるのか、これは考えてみるとなかなかおもしろい問題だと思いますね。
 
 で、今の茂吉はそういうふうにオノマトペ自体としてはあんまりおもしろい使い方はしてなくて、あとは「ほがらほがら」ぐらいかな。「ほがらほがら」って茂吉はよく使っていますけども、白秋はね、それに比べるとオノマトペの宝庫っていう感じがしますね。それは、白秋はひょっとしたら、もうちょっと調べてみたいなと思うんだけど、やっぱり童謡を作ってたというのが非常に大きいんじゃないかなと思いますね。オノマトペじゃないけど、「Gonshan Gonshan どこへ行く」っていうのね、あの有名な白秋の童謡がありますけども、怖い歌ですけどね、あの歌ね。この白秋の「桐の花」の歌も、これ結構ね怖い歌だと思うんですよ。「きりはたりはたりちやうちやう血の色の」、これは次は「かけぎ」と読みますね。「棺の衣」、これは「かけぎ」と読みますが、ああ、これはみんなルビ振ってないです。
 

  きりはたりはたりちやうちやう血の色の棺衣織るとよ悲しき機よ
                 北原白秋『桐の花』

 
 状況はよくわかりません。これは白秋が『桐の花』の時代ですね、ある種のイメージで作ってた歌だと思いますけども、機を織っている、その機を織る音が「きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう」と聞こえるというね。これもっとゆっくりいくと、機を織っていくそのリズムに合わせて多分白秋は感じたんだと思います。「きりはたりはたりちやうちやう」という、一個一個の言葉はほとんど意味がないという。「はたり」にちょっとその擬音語らしいあれがありますかね。ただ、ほとんど白秋が自分の心の中で聞いた音という感じがしますね。それが下の句へ行って、「血の色の棺衣織るとよ悲しき機よ」という、この「血の色の棺衣」、こんなものは本当はないんだと思うんですが、を織るというその非常にちょっと怖い、おぞましいイメージっていうのは、恐らく上の句の方の「きりはたりはたりちやうちやう」という、意味はないけれども、何となくこうしんしんしーんと沈んでいくようなオノマトペが非常によく効いているというふうに思います。
 
 本人には聞いたことないんですが、その次の三首ほどはいずれも白秋の歌にどこか源があるような歌だと思って取り上げておきます。
 河野裕子の『体力』の歌は、
 

  ちりひりひ、ちりちりちりちり、ひひひひひ、ふと一葉笑ひ出したり神の山     
                 河野裕子『体力』

 
 何でしょうね、これよくわかりませんが、「神の山」って上賀茂神社の奥にコウ山っていうのがある。神の山です。そこをイメージしてる。あるいは俳句で一時世間を騒がした「神の山仏の山も眠りたり」という句があって、これは有名な俳人の句だと。「神の山仏の山も眠りたり」、「眠りけり」か、「神の山仏の山も眠りけり」、これ実は句集が出まして、二冊の句集に同時にこの句が載っている。ほとんど同時に出た句集なんです。一方のは「神の山」だったかな、これは上田五千石がそれを見つけて、新聞の時評で書いたのが非常に印象に残っている。俳句って短いからね、これを真似をしたんじゃない、創作でもないんだけど、たまたま「神の山仏の山も眠りけり」とできてしまったんだろう。ほとんど同時なのでそういうことになったんです。そう思って調べてみると、それから二十年ぐらい前にやはり「神の山仏の山も眠りたり」だったかな、今度は何かちょっと、ちょっと違う句が二十年ぐらい前に出てたんだそうです。それが原点になっているのかどうかというのは誰もわかんないという、そういうことでしたけども、俳句というのは非常に怖いと思いますね。一番盗作問題が多いのは俳句ですよね。俳句って無意識のうちに真似しちゃうこともあるので、さすが短歌の場合はね、意識的でないと、あるいは無意識的なというのはあるんですが、意識的に真似をして選者を引っかけてやろうとかね、そういうふうに思って来る人もいるし、あるいは一番多いのはね、いいなと思って有名な人の短歌を自分のノートに書きつけておく、いいなと思って。だんだんぼけてきますから、何カ月かして見たら、ああ、いいの作ってたと思って、それとても多いんですよね。それから、亡くなったお母さんの歌帳、歌の手帳にあって、亡くなってから投稿すると、お母さんいい歌作ってるなと思って子供が投稿しちゃう。それは実は有名歌人の歌だった。それを知らないで載せちゃうこともあるから怖いですよね。そういうことあります。ただ、俳句の場合はね、もっと無意識に、もう自分の中に染み込んじゃうことがあって、それが後でふっと口をついて出ることがあるみたいで、今の「神の山仏の山も眠りけり」という、これだけで一つ何か評論が書けそうなおもしろい題材です。今関係ないですけどね。
 
 上の句の「神の山」、これはなかなか怖い歌ですね、これもね。実際はね、多分山で、静かな山で、葉っぱがぽっとこう、どれか一つの葉っぱが笑い出すと、その笑いが山全体にわーざわざわざわざわっと伝わっていくという、その伝わり方がざわざわざわじゃなくて、こちらでちりっ、ちりっとかね、ぽそっ、ぽそっとかってこっちで葉っぱの笑い、山の笑いが出てきたという、そんな感じの歌だと思うんです。あるいは秋の山を想像すれば、葉っぱ、落ちた葉っぱってこう、きゅっとこう、「乾反り葉」って言いますけども、反って落ちていくときに、さらーっと非常に枯れた軽い音をたてる。その音かもしれないですね。葉っぱが落ちていく音、あっちでも落ち、こちらでも落ち、それが山が笑い出すように見えるという、そんなことかもわからないけど。なかなかやっぱり最後の「神の山」っていう一句があるので、全体がどこかでちょっと別の者たちがかすかな笑い声を立ててるような感じがする。おもしろい歌だと思います。これも白秋の「きりはたりはたりちやうちやう」の系列にあるオノマトペかなと思いますね。
 
 次の歌は、まあ次の歌はもうちょっとあれで、これは雨垂れの音、雨垂れをどうかという。
 

  雨垂れはいつまで続くしたひたてん、したしたしたしたしたひた、てん
                 河野裕子『歳月』

 
という。雨垂れ見ていて、なかなかね、これも思い切った擬音語で、「した」と「ひた」しかないんですけども、「てん」、なるほどこう言われてみると、雨垂れがした、「した、した、した」と、こう落ちてくるっていう感じがわかる。何を言おうとしてるんでもないというところが大事ですね。我々は短歌って何か伝えたいと思うので、それで一生懸命になるんですよね。これだけは相手にわかってほしいと思うので、一生懸命伝えようとするわけ。そうすると、言葉がすごい窮屈になっていって、これだけの言葉の中でどれだけのものが盛り込めるか、いかに言葉を効率よく使うかっていうとこで一生懸命になるわけだけど、逆にオノマトペを使う意図というか、効果というか、それは逆で、一首の中からいかにこう意味を削いでいけるか、意味を除外していけるかという、そこで我慢できないともったいなくて使えないのね。
 
 「もったいない」っていうの今何か降ってきた言葉みたいで、何だっけ、アフリカの何とかさんが、マータイさんか、ノーベル平和賞もらった人が日本に来て「もったいない」といういい言葉があると言ったんで、もうこのごろ投稿歌で「もったいない」ばっかりね。もう本当に反応の早さってすごくて、おとといも朝日の選歌でみんなと笑ったんです。刺股の歌ばっかり、このごろ。刺股って小学校の刺股、あの歌ばっかりでもう笑ってしまいますよ。刺股ってこれはね、高野公彦によると、東京都内で一カ所しか作ってるとこはないんだって、町工場。あんなの何に使ってたんですかね、刺股ってこれまでね。警察に売ってたのかな。そこは年に数十本作ってたんだけど、今や刺股の注文が全国から来て、二十四時間操業してるという話がありましたけど。
 
 今何の話だっけ、ああ、そう、「もったいない」か。だから、もったいないという意識からはなかなかオノマトペは使えないんだけども、だけど一回ね、自分の歌を物言わずに、つまり伝えたいこと言わずに歌作ってみようと思うと、これはね、訓練としてはいいと思う。あんまりここまでは言いたいと思わずに、まあこんなムードがわかってくれりゃいいやというぐらいのところで、まあ難しく言うと、意味の呪縛からの遁走ですね。意味に縛られて、歌作るときにどうしても意味に縛られ過ぎちゃうんで、それからいかにこう飛んでみるかというときに、オノマトペはちょうど意味を詰め込むという作用とは全く逆の作用をしますので、五句とか、五音とか、七音を無駄にすることを覚悟であるおもしろいオノマトペを自分で見つけて使ってみると意外に歌って立ち上がってくるなあという、そんな気はします。そういう歌が幾つかあります。
 
 白秋のもう一ついきましょう。
 

  月夜よし二つ瓢の青瓢あらへうふらへうと見つつおもしろ
               北原白秋『桐の花』

 
 ようわからん歌ですね。「月夜よし二つ瓢の青瓢あらへうふらへうと見つつおもしろ」、「あらへうふらへう」、これ「瓢」って瓢箪でしょう。月の晩に瓢箪がぶら下がる、瓢箪見ていると「あらへうふらへう」と揺れているんだ、きっとね。瓢箪二つぶら下がっている。まだ青い瓢箪で、それがいかにもこう、この「瓢箪」の「瓢」という字ね、これと呼応しているように、恐らく白秋の頭の中ではこの「瓢箪」の「瓢」という字と「あらへうふらへう」という擬態語とがどこかでぴっと合ったんだと思いますが、だからというわけでもないかな、「ふすべ」という読み方をしている。これは「ふたつひょう」と読まない、「ふすべ」と読む。「月夜よし二つ瓢の青瓢あらへうふらへうと見つつおもしろ」、この辺はなかなか、ほかにはちょっと見たことがないですね、こういう擬音語はね、擬態語か。
 
 こういうもう自分だけしか見つけられない擬態語というのは、使ってみるといいなあと思うんだけど、どうもね、最初に言ってるみたいに、擬態語、擬音語っていうのはね、おもしろいのを使うときって、どこかこう清水の舞台から飛び降りるみたいにえいっと思って使わないとなかなか、おもしろいのができてもこれわかってくれるかなとかね、目立ち過ぎないかなとか思ってしまって使えないという気はします。ただ、擬音語、擬態語の難しいところは、使ってやろうと思って歌作り始めるとだめなのよね。これはね、大体失敗しますね。僕はNHKで「えいっとオノマトペ」っていうのを一回放送したことがあるんですけど、その二カ月後にはもうオノマトペの山ですよ、みんなすごい素直だからね。いろんなオノマトペ見せてもらったんだけど、なかなかうまくいかなかったんですが、その中に一つだけおもしろいのがあります。永田統一郎、私と全然関係ない。「がぶらがぶら」はよかったなあ。「がぶらがぶら氷枕の温まるを夜半のよどみに裏返しをり」、歌としてもいいですね。看病の歌だと思うんですが、病室で氷枕をしている。で、それが最初氷入れてくるんだけど、このごろ氷枕あんまり使わなくなったからご存知ないかな、若い人知ってるかな、周子ちゃん、氷枕知ってるか。氷を詰めているときは割と固いね、水入れときますけどね。ところが、解け出してくると氷がこっちへ動いたり、あっちへ動いたり、結構耳障りでもあるんですが、ただそれは、うまいなあ、「がぶらがぶら」というオノマトペ、これはとても気に入りました。しかも、それが一首の中非常によく生きてるんですね。「氷枕の温もるを夜半の淀みに裏返しおり」、「裏返しをり」もいいですね。氷枕、一方だけやってるとあれ熱くなるんですよね。だから、適当に裏返してやるという、そこもよく生活実感が出ていて、これはいいと思いますね。
 
 いろいろ、じゃ、そうか、池田はるみさんの歌もいっておこうかな。いや、いっぱいあってね、ああ、吉川君来ているか。僕ね、吉川君の歌を、ああ、一首挙げたいなあと思いながらちょっと見つからなかったんでそのままにしたんですが、次宮島のときにあれやろうと思います。「夜になれば河童が来るぞ嘘ちゃうで」というのがあるんです(「雨の夜は河童が来るぞ嘘ちゃうで玄関の前ぬたりとろんとろん」)。「嘘ちゃうで」、その後がね、「ぬたりぬたり」、吉川君、何と言ったっけ、覚えてる、あの歌。その歌覚えてるよな。「ぬたり」何ですか、「とろとろ」、三つの、言葉が三つなかった、続いてる。
 
 まあ、だから本人も覚えてないぐらい、そのときだからね。だから、ここが大事な、これは吉川君もいいこと言ったんで、彼何を言ってもいいけど、覚えられるようでもないのよね。オノマトペ、一瞬の勝負だから。そのときぱっと思いついた言葉なので、これは自分の中でいつも持ってて、いつか使ってやれと思って使えるものではないので、その本当に一瞬の勝負だと思うので、自分でも覚えてないというのは多分正しい答えなんです。
 
 ただ、そういう本当にぱっと思いついたときに、その一首の中で出てきたときに、それを捨ててやらないでほしいという気はしますね。特に、まあここの場におられる方は非常に自覚的に塔でいつも歌を出しておられて、あるいは歌集を作っておられる方随分多いので言うことはないと思います。何となく役目柄、投稿歌というのを見ることがすごく多くなって、この前「路上」に、数万は見るけど、まだ十万には達しないだろうという歌を僕作ったんですけど、佐藤通雅の「路上」に、年間に見る歌の数、十万には届かないだろうという歌作ったんだけど、考えてみるともう十万は絶対見てるなあ、年間。それぐらいの数見るわけですね。そうすると、歌ってね、投稿する人は自分一人の歌なんだけど、特に機会詠であるとかね、社会詠とか、機会ある事件があってその歌を作る。投稿する人はもう自分が見つけたと思うんだけど、大体そのテーマで歌がどーっと来るわけ。そうすると、どれもこれも似たり寄ったりなんですよね。そこでその人の歌がきらりときらめいて、ぱっと立ち上がってくるというのはなかなか難しくて、まあハウツーもの書いたり教えたりするつもりは全然ないですけど、そういうときにおもしろいオノマトペってね、それだけでこちらに訴えかけてくることがある。意味を越えて訴えかけてくることがある。投稿を主にしてる人たちにはオノマトペ使ったら採られる機会が多いですよと言えばいいんだけどね。
 
 まあそれとは別に、言いたいのは、やっぱり歌ってどうしても意味で、あるいは相手にわかってほしいという訴えかけが主になるので、それをどんなふうに自分でその自分の内的な欲求みたいなものを振り切れるかというときに、オノマトペを入れてみるっていうのは一つのおもしろい効果的な方法じゃないかなあと思いますね。
 
 もう時間がないので、最後に池田はるみさん、永井さんのも非常に有名な歌ですね。これもう永井さんの代表歌になってしまいましたね。
 

  べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊
            永井陽子『樟の木のうた』

 
 これ永井陽子さんって非常に好きな歌人でね、「短歌人」の全国大会に呼ばれたときに、永井陽子だけで一時間しゃべる、とてもいい、最近全歌集が出ました。まあ永井さんのそれでいいとして、池田はるみさんのこれだけちょっと一つやっておきましょう。
 
 これね、彼女大阪の人なんで、本当は大阪弁で読まんとあかんですがね、僕大阪弁はできないので、
 

  あんたホホしようむないことしようかいな格子は春の銀色しづく
             池田はるみ『妣が国・大阪』

 
 「あんたホホ」、これ「ホホ」はね、本当はもうちょっと小さいんですね、もうちょっと、メールで送ったんでこの同じ大きさ、「しようむないことしようかいな格子は春の銀色しづく」、何かようわかりませんが、これはね、擬音語、擬態語と、オノマトペという意味で言うと「ホホ」しかないのね。「ホホ」だけなんです。笑ったのね。「あんたホホ」って、「しようむないことしようかいな」、「ホホ」っと笑ったという、この「ホホ」しかないんだけど、読んでいくとね、「あんたホホしようむないことしようかいな」、ここまで全部何かオノマトペみたいに聞こえません?ね。まあちょっとね、エロチックな歌かなあ、これはな。うーん、何かこう誘惑されてるみたい、そんな感じやね。池田はるみならしそうだと思う。ただ、非常にちょっと官能的な、物思わせぶりな歌でもあるけども、「ホホ」っていう笑いの前に「あんたホホしようむないことしようかいな」、これ全部がほとんど意味のないようなオノマトペ的に聞こえてくる、不思議な歌ですね。何にも謎解きがないね。「格子は春の銀色しづく」、格子には、雨が降ってるのかな、閉じ込められてて、部屋の中でもうすることない、「しようむないことしようかいな」と言っている。子供なら何かわかるけどね、大人に言われるとちょっと怖いなあ。そんな歌ですが、まあ、うん、なかなかおもしろい歌ではあるね。
 
 僕の後ろの二首だけちょっと読ませて、あんまりまあ言わない。
 

  おーんおーんと山は膨らむこの山のどこかにあるはずの空気穴
             永田和宏「麦と火の見櫓」

 
 これ春のやつね、春って山膨らんでくるね。どんどん膨らんでくると、あれどこで膨らむんだろうという感じがするので、僕はこの「空気穴」だけが何か気に入ってて、山のどこかに空気穴があって、ぽんと栓を抜いちゃうとぺしょんと縮んでしまうのかなあという、そんな感じがします。
 
 次の歌は微妙なところ、これは同じ最近、去年だったかな、角川に出した歌です。
 

  ビル街を行くときここは風の道しゃらくせえしゃらくせいぞと風吹きすぎる
              永田和宏「麦と火の見櫓」

 
 これはちょっとあんまり成功してないかもしれないですね。まだ「しゃらくせえ」がちょっとうるさいという感じですね。
 
 今日は結論なくて、いろんなオノマトペがあって、オノマトペっていうのは既成のオノマトペ使うことももちろんできるし、それで効果を発揮する場合もあります。茂吉の「しんしん」「あかあか」全部そうですけど、そうじゃなくて、自分で見つけたオノマトペってどこかで使ってみるというのもなかなかおもしろいので、選者に挑戦するつもりで一回こんなオノマトペもあるよっていうのを送ってみられたらいいんじゃないかなあというふうに思っています。後でもし自分のこれはというオノマトペがあったらぜひ教えてください。
 まとまりない話ですが、これで終わりにしたいと思います。(拍手)

ページトップへ