塔アーカイブ

2017年4月号

特集 平井弘インタビュー
「恥ずかしさの文体」(後編)
 
聞き手:吉川宏志
記録:澤村斉美
テープ起こし:干田智子
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(前号からのつづき)
 
独特の文体と『前線』
 
吉川 平井さんの歌には、論理化しないという特徴が最も表われていて、途中で言うのをやめてしまうような、言いさしの文体が多い。「いま村をだれも走っていないことそれだけのおそろしく確かな」(『前線』)とか。あれはどこから生まれてきたんでしょうね。
平井 どこから来たんだろう。やっぱり恥ずかしさと連動してるのかな。あんまり意識してないけど、読み直してみると多いですね。
吉川 本当に独特ですね。結社に入っちゃうとああいう文体は出てこないのかもしれない。
平井 結社に入っちゃうとね、短歌の伝統というか、短歌の語彙とか、言葉の使い方とか勉強するでしょう。私はそういうこと全然勉強してないから語彙や語法が少ないんですよ。だから、「なりけり」とか「ありたり」とか断言する方法を覚えていないんですね。
吉川 それは謙遜だと思うけど。でも、結社ではきちんと言い切れというふうに教える気はしますね。まあ最近は「塔」もルーズになってきたんですけど(笑)。
平井 結社に入るとそういう基本から叩き込まれるでしょう。そういうとこは初めから私抜け落ちてるから、本当に我流でやってきた歌ですからね。
吉川 あと今日見てて笑ってしまったのは、「外套の腕絡ませるようにしてなじりくる腹立てなくっていいの」の結句って、もう俵万智じゃないですか。俵万智さんのずっと前からこういう歌があるんだ。
平井 これ穂村弘さんも指摘していましたね。加藤治郎と俵万智と穂村弘の、特徴的な文体の基本にある言い方はみんな平井弘が先にやっているって書いてましたけどね。
吉川 ある意味早すぎたんですよね。俵さんになると文体と時代が結びついたわけで。
平井 ちょうどリンクしたんでしょ。
吉川 平井さんの歌の内容はもっと重いですものね。
平井 そうですね。だけど、口語文体の革命みたいなものはやっぱり村木道彦さんの『天唇』でしょうね。あの後、あの系統でいってる人はいないもの。もうできないんです。私がやってた口語の文体は現代に結構つながっていってますけどね。
吉川 「いる筈のなきものたちを栗の木に呼びだして妹の意地っぱり」(『顔をあげる』)「栗の木のようというまで痛めむに手首なげだしいる意地っぱり」(『前線』)みたいに、同じ発想を繰り返しているところもありますね。
平井 ありますね。同じ内容を繰り返している。少ないですもの、私の歌の材料がね。だから、同じことを何度も繰り返して作っている感じはします。テーマは一貫してますけどね。さっき言ったような戦死した兄というのが根本にあって、兄の声、その兄を持つ弟の声をそれぞれの時点から聞いているというのがテーマで、それ以外のこと私何も歌ってないですから。だんだん聞き取りにくくなっていくでしょう、兄の声がね、今の世の中で。だから、それを聞くために、この文体の感度で聞き取れるのかなと、だんだん変えていっているのでね。それを聞くための文体はこれでなきゃ、と。だからいま旧仮名になっているのもそういうこともあるんです。私の中では必然性はあると思いますけどね。
吉川 僕も平井さんの「男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる」などには影響を受けた気がしますね。
平井 あの歌やっぱり一番取り上げられますね。あれね、滝耕作さんの、少年の「ぼく」が少女の代わりに殺してあげるという説、佐佐木幸綱さんの説などいろいろあって。佐佐木さんの説は父親と息子という設定でね。私は自歌自註するの大嫌いで、歌は作者の手を離れれば完全に読者のものだから、読者の中の想像力で花開かせればいいんで、あ、そんな読み方もあったのかって後でこっちが知らされるのは作者冥利ですものね。だから、この歌は典型的にそうですよ。佐佐木さんに言われてうわあっと思ったんです。
吉川 ああ、そうですか。
平井 私には父親の歌がほとんどないんです。母の歌は時々作りましたけど。ましてや父親の視点から子供を見ることなどないです。親の視点の歌は一つもないんですよ。
吉川 ないですね、確かに。
平井 ないです。だから、それは一首の解釈としては成り立ちますけど、私の歌の流れの中に置くと、その父親と息子という設定はちょっとどうかなという気はするんですよね。ところが実はね、加藤治郎さんがその佐佐木さんの説と同じなんですよ。最近新聞に書いてたんですけど、ちょっとびっくりしたんです。「父は息子にこう囁く。そうだよ(こんどは)おまえが殺しにいくんだ……」。これ現代にリンクしているんですよね。二〇一五年の現実に結びついてくるというような書き方で言っているんです。歌というのは時代にリンクして読まれるんだなと感じましたね。
吉川 『前線』ってかなり批判があったんですか、当時は。
平井 賛否ありましたが、国文社の(現代短歌文庫『平井弘歌集』)では清水昶さんが解説を書いてるんだけど、わりと否定的な書き方です。私自身ちょっと背伸びしてるところありますもの。作風は二つに分かれるんですよ。例えば「ひぐらしの昇りつめたる声とだえあれはとだえし声のまぼろし」とかね。
吉川 あれは名歌ですね。
平井 ああいう系統の歌と、それからもうちょっと思想が入ってきているような歌ね、菱川善夫さんあたりが喜んで取り上げてくれた。両方あるんですけど、やっぱりそちらは今読み返すと、自分としてはちょっと空疎かなという気はするんですね。少し背伸びしすぎてたなあという気はするんです。
吉川 ひぐらしの歌も、戦死者の声ですよね。
平井 ですね。岐阜県八百津町で杉原千畝を記念する短歌大会があるんですが、表彰式を人道の丘というところでやるんです。そこへ行くとひぐらしがいつも鳴いているんですよ。夏に表彰式やるもんでね。だから、俺が死んだらここへひぐらしの歌の歌碑を建ててくれよって冗談言ってるんです。この歌は私一番好きですね。
吉川 ひぐらしってふっと鳴きやみますよね。本当にふっと消えますもんね。
平井 そうでしょ。高いところへ持っていってふっと消えちゃう。そうするとまだ聞こえているような気がして。山田消児さんがね、ひぐらしの声が自分だけにはまだ聞こえているという悲しい自負の歌だって書いてくれたんだね。あの件りにくると今でも胸が熱くなりますよ。
吉川 『前線』について、インタビュー前に澤村さんが、怒りが感じられると言ったけど、忘れてしまっているものへの怒りというのはすごくありますよね。戦後二十年ぐらいを過ぎて戦死者を忘れていく。
平井 自分自身が忘れていくんですね。遠くなっていきます。戦死した兄の声はだんだん自分の中でも曖昧になって聞き取りにくくなっていくという自覚ありますものね。だから、怒りといっても、それは自分自身に対する怒りでもあるんです。
吉川 「どのような闘いかたも胸張らせてくれず闘うたたかうだなんて」。これも有名です。
平井 闘うということ自体が恥ずかしいという。負けるのはむろん恥ずかしいけど、勝つということも恥ずかしいだろうと思うね。
 
口語文体の先駆性~『振りまはした花のやうに』「キスケ」など最近作を読む~
 
平井 実はあんまり評判よくないんですね、『振りまはした花のやうに』。
吉川 え、そうですか。
平井 と思いますよ、あまり反響ないもの。あまり取り上げてもらった記憶がないんです。
吉川 ああ、そうなんですかね。僕は最初に手書きの原稿をいただいて。
平井 あれはね、手紙にも書いたけど「鉢の木」のつもりですよ。もう出す見込みがなかった歌集ですものね。
吉川 あれはすごくうれしくて。
平井 本当にね、いつも歌集を送っていただくけど、お返しするものがないから。「鉢の木」ってご存じ? 謡曲にあるんですよ。何も燃やすものないから、盆栽の鉢の木を燃やしてもてなす。そういうつもりでした。
 何とか出版できまして、これも本当は冨士田元彦さんのところで出さなきゃいかんかった。でも、教室の人たちがみんな費用をカンパしてくれたんですよ。印刷してくれたのも教室の人で印刷屋さんです。どうしてもそこでやってもらわなきゃならんから、冨士田さんに頭を下げたんです。結局冨士田さんの雁書館では一冊も歌集を出さずじまいでしたね。あの人にも恩返しできなかったな。
吉川 帯に「現代のわざうた」って書いたんですけどね。
平井 これね、本当にうれしかったですよ。帯のこの言葉、吉川さんの手紙の中にあったんですよね。これだと思ったの。これ頼む、使わせてくださいって頼んでね、使わせてもらった。本当にありがたかったです。
吉川 「わざうた」って「童歌」って書くんですよね。さっきの子供の目を持ち続ける話にもつながっていくんですけど。二〇〇六年刊行ですから十年前ですが、もう不安な時代の予兆がありますよね。「ここいらで縊られたのは憶えてゐますとよびとめて鶏頭がいふ」とか、何だかわかんないけどすごく不気味。「落ちた蛾つてたいていまるく翅を擦るふんさうやれば助かるのか」も恐ろしい。よく読んだら原爆の歌があるんですよね。「一瞬にして無くなるといふそんな蚊だつてそんなこと想ふかよ」。これが一首だけだと全然わかんないんだけど、連続して読むと、原爆による死を暗示していることがわかる。
平井 吉川さん的確に読み解いてくれましたもの、あの一連をね。
吉川 「はづかしいから振りまはした花のやうに言ひにくいことなんだけど」。これはすごくわかりやすいですね。歌集のタイトルにもなった巻頭歌ですが、もう自分は恥ずかしくて、ストレートには歌えないんだということですよね。最初の一連のタイトルが「Peace」なんです。「平和」ということを、無力な自分が語るのは恥ずかしい。自分はそんな立派なことを言える者ではないんだという羞恥心があるんでしょうね。
平井 よくね、なぜ旧仮名にしたのかということを言われますね。やっぱり、ここまで戦死した兄の声が曖昧になってくると、この文体でないと聞き取れないような気がするんですよ。それでこれにしてみたんですけど。
吉川 本当に不思議な、独特の文体になりましたね。
平井 これが全部三十一音だということに気がついている人は少ないですね。やっぱり短歌は三十一音だというのが、最終ラインとしてそれだけは守っておかないと。例えば新短歌みたいにね、山頭火の俳句みたいに短いのでも短歌ですとか、散文のようなだらだらと長いのでもと言われると嫌なんですよ。
 五七五七七からまるっきり外れてますけど、自然とこれで歌が出てくるんです。読み慣れると結構リズム感あるって言ってくれる人もいるんですけどね。
吉川 これも好きなんだけど、「斃されたもののちかくで草を食べるわたしでもさうするだらうが」という歌は、同じテーマですよね。ライオンか何かが獲物を殺している横で、シマウマか何かが草を食べている。他人が死んでも自分は草を食べているしかないんだ、という無力さゆえの残酷さ。それが率直に歌われていて、誠実な感じがします。
平井 この中で園遊の歌あるでしょ。ああいう歌も好きなんですけどね。
吉川 これですね、「園遊やとつぜんですがお招きの方(かた)よりなにかおほくありません」。
平井 これもわかってくれる人とそうじゃない人といるんですよね。
吉川 天皇の開催する園遊会に戦死者が紛れ込んでいるイメージですね。
平井 来ているんじゃないですか、お気づきになりませんか、気づいていただけませんかという歌ですね。
吉川 「とつぜんですが」という挟み方も、とてもおもしろいですね。すごく現代的な感じがするな。斉藤斎藤さんとかもこんなふうに言葉が挿入される歌を作っているんですけど、近い感性がある気がします。最近の歌はまた奇妙なリズムで、「さうかこの/軍服がみえ/てゐないか/王さまはうれ/しくなりました」(二〇一六年『短歌』五月号)って、一応三十一音ですけど、句またがりでもないような変わった切れ方をする。
平井 句またがりというのは全く意識してないんですけどね。
吉川 ただ、読む方としては、五・七・五・七・七で切って読もうとする。
平井 短歌をやる人はやっぱり五・七・五・七・七のリズムで読みますか、これを。
吉川 やっぱり一回は読むんじゃないですかね。五・七・五・七・七で切って読んでみて、奇妙なズレを楽しむんじゃないですかね。
平井 初めからその関節みたいのは全部外して作っているんですよね、私は。
吉川 ああ、なるほど、作る方はそうなのですね。
平井 うん、作る方はそうですね。むしろ口語の基本の音律は五七じゃなくて六音のような気がするんですよ。六音、三三とか、二四とか、五一とかね。だから、組み合わせるなら六音の組み合わせのような気がするんです。
吉川 リズムとグルーヴとは違うという話を最近聞いたんです。リズムって正確にポン、ポン、ポンってドラムで打っていく。でもグルーヴは、民族によって違うらしい。リズムとは異なるズレがある。そういう感じってありますね。五七五七七はきっちりしたリズムなんだけど、それからどうズレるか。そのズレ方に、作者の個性が現われることがある。
平井 一拍ずれてポンってこう入れていく、合いの手ポンというあれですね。
吉川 ただ、ズレに気づくためには、やっぱり正確なリズム感が読者のほうに必要になる。
平井 ああ、そうか、そうか。もうずれっ放しだとダラダラというふうに読まれてしまうというね、なるほど。
吉川 もう一つ、平井さんの歌は主体というのが薄くて、一首の中に何人か別の声が入るという感覚はあるかなって気がする。
平井 これ、とても重要な指摘ですね。確かに私の歌の特徴かもしれません。一首の歌の中で主体が入れ替わってひょいと入ってくるというね。それは連作の中でも一首入ってきますね。
吉川 さっきの園遊会の歌、あれが一番特徴的ですけど。急に「とつぜんですが」が入ってくる。「黍の毛がやけに縮れてゐるのだがどうみてもいつもの空だよね」という原爆を暗示した歌も、主体が複数ある感じ。
平井 結社の人の歌だと、一首の中にねじれがあってはいかんとかよく言われませんか。主体のねじれがあると嫌われますけど、私の歌の中ではそれが無意識にいっぱい出てくるんですよ。
吉川 前衛短歌は、上句と下句に別の声があるという作り方で、きっちり二つに分かれてたんですが、今は混ざってるんですね。岡井さんも最近わりとそういうときがある。
平井 岡井さんありますね。
吉川 口語の中で、別の声が入ってくるのがやっぱり新しい表現で、たぶん若い世代はそこを革新しようとしている気はします。
平井 そうかもしれませんね。
吉川 平井さんの歌はその先駆だったんじゃないでしょうかね。それで若い人が読む。
平井 何か最近本当に若い人が興味持ってくれているという感じは私も受けてます。
吉川 歌が研究されるのはわかる気がします。
平井 この間『率』という同人誌から作品をくれないかと言ってきて、「ぐらでえしょん」という三十一首を出したんですけど、私としてはうれしいですね。そういう孫のような世代の人に興味を持ってもらえるのは本当にうれしい。
 そのかわり同世代や、ちょっと下の世代からはわからないって突き放されますけど。門前払い受けるもの。小池光さんやら大島史洋さん、あの人たちがわからないと言うのもそれはそれでわかるんですけれども。でも私、大島さんの今度の歌集『ふくろう』のお父さんの死を歌ったあの歌なんかすごいと思って、やっぱり境涯詠でもあそこまで行ったらすごいなと思って認めますものね。ただ、中途半端な境涯詠をわかるわかると褒め合っているのは嫌なんだな。境涯詠がいいというのはわかりますけど。
吉川 平井さんの歌って僕はよくわかる気がするんです。一首一首だとわからないこともあるけど、歌おうとしている方向性はわかる。
平井 そこがうれしいんですよ。多義性は絶対手放したくないし、手放せないんですよね。私の歌から多義性取ったらもう何も残らない。
吉川 ああ、そうですね。ただ、逆に一首だけ読むと文脈がわからないという批判のし方はあるかもしれません。
平井 私も稚拙だと思うし、足を取られる瑕はいっぱいあるんですよ。それはもう認めますけどね。「穴が言ふのだつたらしかたあるまいべーたてらべくれるしーべると」(『短歌』二〇一六年五月号「キスケ」)って、だらだらっと書いてあるんで、何のことかさっぱりわからないと批判されましたけど、だらだらって、これ下の句のことでしょ。そんなに難しいこと言ってるわけじゃないし、呪文を意識してますものね。これでわからないと言われると、こちらがええっと思うんだけど。
吉川 最近の「あつたうてきなものを前にしたら見ててごらん鴉はさわがない」(同)という歌には、すごく共感したんです。例えばイラク戦争のときなんかに、歌人はもっと社会性をもつべきだ、とか言ってた人が、今になって全く沈黙してたりする。安保法制などが身近なことになってきたら騒がないんだな、とちょっと腹が立ったりしてね。
平井 それも多義性を前提にしないと読めないものね。
吉川 「見ててごらん」というのがすごく印象的ですよね。
平井 多義性とかレトリックを弄するのはまだるっこいとか、そこまで否定されると、そういうものかなと思うけどね。
吉川 でも、難しい問題ではありますよね。この前、沖縄に行ったんですよ。沖縄の歌人と話してきたんですけども、沖縄だとやっぱりストレートに言わなければならないという意識はすごく強いみたいですね。直接的に歌わなければ、沖縄以外の人は理解できないんだ、という不信感もあるんでしょう。そのあたり、すごく考えさせられましたね。
平井 そういう作り方をする人はそういうふうに作ればいいんだが、私のような歌の作り方を否定まではしてほしくない。多義性とかレトリックというのも一つの武器になるんだということは認めてほしいと思いますね。
吉川 それはそのとおりですね。
平井 わかるわからないは感性の問題もありますね。吉川さんの歌で私これが一番好きなんですけど、「杉山に雨がふりだす 軍手にて目を覆われし女のように」。教室でこの歌好きだというと、どこがいいのか説明してくださいと言われるけど、これは絶対説明できない。これはもう感じが伝わらなきゃわからないよと言うんだ。この女の懐かしさ。女の感覚にたとえているんだけど、この気分はわかる者にしか絶対わからない。わからない人はわからないと言うんだけど。
吉川 ありがとうございます。
平井 自分で言ってはいけないけど、文体的には少しずつ先を行っている自負は、自分でもあるような気がします。
吉川 読者に対して語りかけている文体の新しさもあるのかもしれない。「見ててごらん」とか、読者に対して語ってますね。短歌って、読者に対して、読者がいないかのように歌いますものね、普通。
平井 そうですね。
吉川 これもね、「ゆふ焼けのなかから掴みだしてにぎってゐるのだが見てくれないか」って、読んでる人に…
平井 呼びかけるようになってるよね。
吉川 不思議な文体ですよね。読んでる人に直接語りかけてる。こんな自他が融解しているような文体が、現代の感覚とすごく合ってるんでしょう。今の崩壊感覚とかに。
平井 今の若い人のフィーリングにストンと落ちるところがあるのかもしれないですね。
吉川 インターネットのツイッターとかあるじゃないですか。あれなんか小さなことを、
平井 みんな語りかけ、お互いの相互作用みたいな。
 
『時代の危機と向き合う短歌』をめぐって
 
平井 この本、『時代の危機と向き合う短歌』を読ませてもらって、私らのシンポジウムの頃の既視感があります。確かに何かしなきゃいかんという焦りみたいなのがあの当時もありましたしね。ただ、私はノンポリという立場でもなくて、無関心ではありますけど、無関心ということを自覚するということであなたたちと同化することはできませんかという立場だったんですね。今でもそういうことは言えると思うんですが。
 この本の中でやっぱり一番注目したのはレトリック・多義性のところなんです。永田和宏さんの基調講演でも、どっちかというと否定的に言っておられたでしょう。ただ、それが目的化してはいけないというふうに敷衍しておられましたけどね。それよりもその後の座談会の方がちょっとショックだったですよ。かなりみんな否定的なことを発言しておられたんで。
 例えば多義性というのは後でその状況が変わったときにいろいろ言い直しができるんだ、という言い方があったでしょう。反対、賛成どちらでもとれるような歌を認めてしまうと、時局ががらっと変わったときに後から作者が実は反対だったんだというような、迎合して言い直しができるのではないかという批判を、田村元さんが言っておられました。
 それから、三原由起子さんが、大震災のときはレトリックを使う余裕がなかったって言ってましたね。レトリックを使うのは余裕なのかなという気がするんだけどなあ。
 それと、機会詠って一発勝負というか、一回こっきりのものなのか。後で読み直したときに機会詠は古くなるのではないですか。記録として読めばいいんですかね。多義性のある歌だと、さっき言ったように時代にリンクされた別の読み解き方もされるんです。機会詠はそのときはインパクトがあるんだけど、後から読んだときは記録性で読まれるのかな。
吉川 まあそれはありますね。ただ、多義的すぎて、状況から逃げているだけの言葉になってはまずいという面もあるでしょうね。
平井 吉川さんは、機会詠を詠むためにと言うと本末顛倒ですけど、参加するということに比重をすごく置いている。それはそれでよくわかるんですよ。とにかくデモに参加するんだというような歌ね。
吉川 参加することが正しいとは言わないんですが、やっぱり現場に行くことで言葉に力がこもるという面はあるんですね。身体的な力がこもるというか。だから、そこは重視したい思いはあるんです。それから、機会詠も本質を捉えているものは繰り返し読まれるんじゃないでしょうか。清原日出夫さんの警官を詠んだ歌も、同じことが今も起きてるなという感覚を受けるんです。例えば、「海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ」という岡井隆さんの歌があるじゃないですか。六十年安保の頃の歌で、アメリカと日本の関係を歌っているんですけど、今でも全く同じ構図ですものね。
平井 これは染野太朗さんの言葉だけど、「思考するために立ち止まる一助としてレトリックを使うのは、大事なのではないか」と言ってるんですね。私もその立場なんですが。
 それともう一つ、吉川さんがこの本の中に書いておられるんだけど、「安保についても、「われわれが」選挙で選んだ結果じゃないかというふうに、自己批判になってしまうと、厳しい批評性が失われてしまう」と言っておられますね。だけど、どこに責任の所在があるかということが、逆にはっきりするんじゃないですか。私は選んだ自分たち一人一人に責任があるんだということは明確にした方がいいと思います。安倍政権が悪いったって、対者を倒したらそれでいいのかというと、そういう問題じゃないと思う。選んだ自分たちの方が変わらないと、安倍さん倒したところで何も本質は変わらないですよ。だから、選んだ自分たちが悪いんだというところに立ち返らないと。ここに「私たちの側」とか、「われわれが」とか、「一人一人の善良な人々」という言葉がいっぱい出てくるんだけど、そこへ集まっている人たちをそういうふうに捉えていていいのか。あるいはごく一般の人間をそういうふうに捉えていいのか。私はちょっと危うく思うんですよ。もう変質しているかもしれないんです、その一人一人がね。
 日本会議ってありますが、昔の大政翼賛会みたいに明確なものならむしろ対者になるんですよ。そうじゃなくて、私にしても本で読んだ知識だけなんですけど、本当に地道に浸透してるでしょ。あれ怖いんですよ。サイレントの信奉者は多いんじゃないか。このごろ私はNHKの相撲の解説を見てても、舞の海が出てくるとテレビを消しちゃうんだ。あの人も日本会議です。「われわれ」とか「私たちの側」とか「一般の人間」と思い込んでいる人たちが変質してるんじゃないか。「われわれ」というものにすごくみんな寄りかかっているような気がする。他者というのをもうちょっと見直さなきゃいかん時期に来ているんじゃないかと思います。
 安倍さんを生み出したものの方を変えていかないと第二の安倍なんか幾らでも出てきますよ。心の中に、やっぱり軍備したい、原爆の一つも持たなきゃ北朝鮮に対抗できないんだ、もっと軍備増強しなきゃ尖閣取られてしまうぞというような思いを持っている人の方がむしろ多くなってるんじゃないか。安倍さんの支持があれだけ高いということは、既に変質していると思った方がいい。
吉川 難しい問題で、ただ「一億総懺悔」みたいに、安易に「わたしたち」を拡大してしまうと、あの時はしかたがなかったんだ、みんな悪かったんだ、というような甘えの構造になってしまう。だから「安倍政権を選んだのはわれわれじゃないか」という言い方にも、危険性はあるように感じるんですけどね。
平井 例えば、靖国というテーマで作ったって、そんなところに戦死した兄たちは戻ってなんかいないよという意識ははっきりあるんですね。村にも戻ってないと思うけどな。
吉川 この歌も好きなんです。「はひつてないのはわかつてゐた盆提灯とにかく軽いんだから」(二〇一六年『短歌』五月号)。死者は、生者が考えているところにはいないんだ、という思いなんですね。
平井 靖国へ参ることで国家精神の締めつけを図るというようなことは、私の立ち位置としては反対です。人間としての天皇はいい人かもしれませんよ。だけど、それを利用するものが必ずいるんですよね。天皇はもう本当に人間として下りたいんだろうけど、それを許さないんです、周りにいる者が利用して。だから、そういうものであるからには、天皇制ってものを私は評価する気ないし。
吉川 今の天皇はすごくいい人みたいですけどね。リベラルだしね。
平井 本当にリベラルですよ。それを利用してる方が悪いんだけど、利用されただけですってのもね。吉川さんこの前作ってたでしょ。「天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ」。恥じているんだけど、恥じなくていいんじゃないの。本当に天皇が一言ね、戦争でも原発でもいかんと言えばいいんですよ、言ってくれればね。
吉川 天皇に「原発をやめよ」と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。
平井 だめでしょうね、今はもうね。ある一部の人とかじゃなくて、もうかなりそれが国民の中に浸透してるんじゃないかというところが怖いんです。これいつか通った道と同じですよ。
吉川 それに対してどう歌えばいいかちょっとわからないところありますね。
平井 根本的な認識としてやっぱりそこを押さえておいてほしいんですよ。永田さんたちが一生懸命話してたけど、あの中に「一般の人たち」とか「私たちの側」とか出てくると、一般の人たちをあなたはどういうふうに思っているの、とすごく危うい感じがするんですよ。今日それが吉川さんに一番言いたかった。
 
意識下にある女の怖さ/現代のわざうた
 
澤村 私は平井さんの歌を読んでいて、女を憎んでいる雰囲気を感じることがたまにあるのですが、歌のテーマとしては意識されているのでしょうか。
平井 憎んでまではいないです。蔑視もしていないです。ただ怖い。
澤村 怖い。怖さですか。
平井 女って得体が知れん、怖いです。
澤村 何でしょうね。実際「姉」とか「妹」という言葉が出てきて、語弊があるかもしれないですが、「姉」や「妹」を咎めるような、突き放すような視線で描いていることがあるような気がするんです。
平井 潜在意識の中にあるかもしれませんね。これ話していいのかなあ。
 子供の頃にね、長屋の裏に葡萄棚があって、そこで紙飛行機を飛ばしてたら棚にかかったんですよ。それを取りに二階に上がったんですね。二階というのは女の人が客をとる部屋になってました。絶対上がってはいかんと親に言われてたんだけど、ぱーっと戸を開けた。そうしたらね、女と男が重なりあってたんですよ。二人とも私を見たんですね。だけど、すぐもう無視して続けたんです。そのとき女だけは、私をじーっと見続けてるんですよ。やっぱり郭の楼主の子でしょ。だからね、憎まれてたと思うんですよ、女たちから見たら。言葉には出しませんよ。それこそ抱きかかえてかわいがってくれてましたけど、内心いい気持ち持ってるわけないものね。「坊やしっかり見ておくがいいよ」って言われてるような気がして動けなかった。「見ておきなさい、これが現実というもんだよ」というふうにね。このときのことがトラウマになっています。
澤村 必ずしも作品世界と直結しているわけではないと思いますが、感性として底流するもの、「女」というものに対する感性の源に触れた気がしました。
平井 いろいろ入りまじってて、恐怖もあるし、蔑視もあるかなあ、懐かしさもあるし、当然母親を早くに亡くしてるんで思慕みたいのもありますよ。抱かれたいというね。それが全部ない交ぜになり、それこそ微妙ですもの。
 花街の中の人間ってものの嫌なとこばっかり見てきましたから、その反作用みたいなものかもしれませんね。中にはそれを読み取る人もいるんですよ。平井さんの歌ものすごく色っぽいとかね、女に対する懐かしさみたいなものがあるとか、まあ、蔑視があると言う人もいるんですが、全部入っていると思いますよ、それは。
吉川 エロティシズムはすごくありますよね。「あね姦す鳩のくくもる声きこえ朝からのおとなたちの汗かき」(『前線』)とかまさに。
平井 吉川さんに「現代のわざうた」って言っていただきましたけど、「かごめかごめ」というわらべ歌、あれってすごく怖いものがありますね。要するに、かごの中に閉じ込められている人を、権力者を倒して解放するという歌でしょ。「かごめかごめかごのなかの鳥はいついつ出やる」、「夜明けの晩に鶴と亀と滑った」って、権力者が倒されるわけで、「後ろの正面だあれ」、その後ろにいるあなたは誰ですかと問いかけている。これはもう抵抗歌ですよ。
 いや、私がそう思うんですけど、そう読み解きもできるんですね。だからこんな歌、面と向かって歌えないですよ。わらべ歌として、子供の言葉として広がっていくから伝わるんですね。私の歌を「現代のわざうた」って言ってくれたのは本当にうれしい。
吉川 今は本当のことを言いづらくなってるのかもしれませんね。わざうたにしないと言えなくなっている面もあるかもしれません。
平井 吉川さんの最近出された『鳥の見しもの』という歌集の中に、「鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり」という歌あるでしょ。ただの叙景とか叙事とか叙情とかそんな歌じゃないですね。
吉川 まあそうですね。
平井 これは多義性を持って読まなきゃわからないですね。「鳥の見しもの」と言っていて何も言ってないんだけど、吉川さんが言いたいのは、鳥の見たものを君たちも見ておきなさいよという歌だと私は受け取りました。見ておくべきだよと、しっかり見落とさないように見なさいよという歌だと思う。
吉川 相聞歌のように読んでくださる人もいますね。
平井 だから、その相聞に応えて返し歌を一つね。「まだいいからおまへが鴉だつたときにみたことを話してごらん」。これ未発表です。今作りためてる中の一つですけど、「おまへが鴉だつたとき」ということはもう殺されてるんだね。まだ今だったら間に合うから生きていたときに見たことを話してごらんという、これ吉川さんの歌に対する返し歌。
吉川 ありがとうございます。
平井 お返しいたします。
(二〇一六年十月九日 岐阜市のハートフルスクエアGにて)

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