短歌時評

歌を死なせては元も子もない / 花山 周子

2017年7月号

 「短歌」二月号時評「日本語文法と短歌」で松村正直は、ここ数年の口語短歌の表現力の拡大に対し、批評の言葉が十分に追い付いていない印象があり、その原因の一つに文法の問題が挙げられるのではないかという。そして、「日本語文法」という新しい文法体系の導入を説いている。これは従来の国語文法に代って近年生れたもので、「国語文法が文語文法と口語文法の連続性に重きを置いているのに対して、日本語文法が対象としているのは現代の日本語である。そのため、国語文法ではうまく説明しきれなかった現代の日本語の姿を生き生きと捉えることができる」という。
 例えば口語では文語のような助動詞がないため、表面的には現在形と終止形ばかりとなり、口語短歌には「今」しかないと否定的に語られる側面があったが、松村はそこに「日本語文法」という客観性と新しい視座を持ち込むことで、積極的に口語短歌の表現を読み込もうとしているのだ。こうした松村の姿勢は批評の場を開くもので大変意義深く感じた。
 ただ、一方で松村が実際に日本語文法にのっとって歌の鑑賞を提示しているのだが、その具体例に私はかなりの違和感を覚えたのだ。たとえば、次の東直子の歌については、
・おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする
 (略)これまでの考えでは「現在形ですべて詠まれている」という分析で終わって
 いただろう。けれども、日本語文法の観点から考えると、相当に複雑なのである。
 「渡されている」は動詞のテイル形、「失くしてしまう」と「気がする」は動詞の
 ル形である。/動詞のテイル形には動作の進行を表す用法(私は手紙を書いてい
 る)以外に、動作の結果を表す用法(この時計は壊れている)というものがある。
 この歌の「渡されている」の場合、今まさに手渡されつつある場面とも読めなくは
 ないが、私は「過去に渡されて、今も手元に持っている、預かっている」という結
 果の意味で読む方が良いと思う。
 本気で、そう思っているのだろうか。この歌が複雑であることは、私もそう思うし、文法的解説を用いるまでもなくその微妙なニュアンスが歌に命を与えていることは過去にも言及されていたと思う。そして、この歌の命は、「今まさに手渡されつつある」その現場においてこそ増幅される「失くしてしまう気がする」という不安にある。松村の解釈ではその臨場感はすっかり損なわれる。もちろん、この歌の解釈を決めつける権利は私にないのだが、私は敢えて言い切りたいのだ。この歌の言葉は生きている。生きた歌の言葉がそのまま私に与える印象というものがある。松村の解説はそういう生きた言葉を腑わけして、歌の鮮度を落としているとしか思えない。
 文法は大事である。文法という共有される知見が主観的な鑑賞の場を開く要素は確かにある。一方で、文法は必ず生きた言葉の後づけで、現代語は常に微妙に変化している。援用するときには生きた言葉に対する感性・・もまた必要だと思う。また、松村は文中で、
  完全口語の歌を読むには・・ 、新たに日本語文法の知識が必要になる・・・・・・・・のではないかと
 いうのが、私の考えである。(※傍点筆者)
と述べていて、このように提唱してしまうことにも違和感を覚えた。松村自身の主旨は批評の場を開くことにあると思うのだが、「必要になる」と言ってしまうときには、話は逆転しているのではないか。学術的な見解はただでさえ正解のように見えやすい。結果的に鑑賞の場に不必要なヒエラルキーを齎すこともあるだろう。何より、それを使用することで歌を死なせてしまっては元も子もない。

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