八角堂便り

位置づけて読むということ / 永田 淳

2017年6月号

 人口に膾炙した歌は、教科書やアンソロジー、あるいは評論の引用歌として読むことの方が多いだろう。有名な歌などは特にこの傾向が顕著で、牧水の白鳥の歌や啄木の東海の小島の歌などを歌集で最初に読んだという人は現代ではほとんどいないのではないだろうか。
 河野裕子の
  しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
                                 『紅』

もそういったたぐいの一首と言えそうである。
 この一首は、河野の子育ての歌として新聞コラムなどでも何度か取り上げられており、河野裕子の名前は知らなくても、この歌は知っているという人もいるぐらいである。
  いつしよくたに妻子(つまこ)束ねて叱りつつ疲れし家長よしばし絶句せり
  良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)きて歩む

 しかし、たとえばこの二首の間に掲出歌を置いてみたら、一首の景色は随分と違って見えてこないだろうか。前の歌は家長、つまり夫のことを歌い、後の歌は妻である自らを歌う。
 歌集『紅』では実に、この二首に挟まれた状態で配されている。この流れで「しつかりと」の一首を読んだ場合、飯を食わせて寝かせる相手は、必然的に「家長」である夫、という読みしか出てこないのではないか。逆に、陽にあてたふとんにくるむ相手を子供である、と読むことのほうにかなりの無理を感じるのである。
 もう一首紹介しておこう。
  こゑ揃へユウコサーンとわれを呼ぶ二階の子らは宿題に飽き
                              『歳月』

 これもときどき引かれる一首で、おおかたはユーモラスな歌といった評がなされる。なるほど、十代半ばの子供たちがちょっとおちゃらけて母を呼んでいる場面である。しかしこの一首の五首前には「母さんとめつたに言はなくなりし子が二階より呼ぶユウコサンなどと」の一首がみえる。子供たちが成長し、恥ずかしさから面と向かって「お母さん」と呼ばなくなったことを寂しんでいる歌である。それを踏まえて「こゑ揃へ」を読むと、ユーモアだけの歌でないことが諒解されるであろう。
 短歌は一首独立した詩型だ、前後の文脈に影響されて読むのは邪道だ、という声が聞こえてきそうである。もちろんそのことを否定する気はない。一首を歌集から引き剥がして鑑賞することももちろん大事だ。しかし、歌集という豊かな文脈のなかに一首を定位させて丁寧に読むことはそれ以上に重要であろう。
 だからといって「しつかりと」を子育ての歌、「こゑ揃へ」をユーモアの歌、と捉えることが間違いであると断定するのはもっとよくないことだろう。

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