短歌時評

仲田有里歌集『マヨネーズ』について / 花山 周子

2017年6月号

・マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる
 この歌の何が私をたたずませるのだろう。仲田有里歌集『マヨネーズ』の解説で石川美南は、「この歌を初めて目にしたのは十年以上前のことになるが、何度読んでも、毎回新鮮な気持ちでびっくりしてしまう」と書いている。「新鮮」という語にはっとする。そうなのだ。新鮮なのだ。石川は続けてこう書く。
 (略)マヨネーズまみれでこんなに淡々としていられるのなんて、この人くらいの
 ものだろう。しかし、短歌の定型(七・七)から微妙に外れた下の句からは、虚勢
 でも自虐ギャグでもなく、思ったことをそのまま口にしたかのような率直さが感じ
 られて、読む方も「そうか、生きるのか……」と、すうっと毒気を抜かれてしまう
 のだ。

 全くその通りだと思う。この歌は、読者が歌に嗅ぎつけたがるような一切を払拭している。「搾られて」という助詞の「て」によってすとんと「マヨネーズと一緒に生きる」に接続されてしまうのだ。
 「現代短歌」六月号の時評で内山晶太は、
・昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
などの歌を引き、「その作品は現代短歌のなかでもきわめて特徴的である。シンプルで乾燥した文体を持ちながら、そこに描かれたモノが、モノ以外のなにものでもなく、シャープに存在している。(略)ここで「モノ」はおそらく「意味」ではなく、「存在」である。モノが背負わされた「意味」を仲田の歌はあらかじめ解消している」と指摘する。内山は「モノにまとわりついてくる「意味」を丁寧に拒むことは、そう持続できるものではない」とも書く。「意味」を解消するというのは実はシンプルにしてとても難しく繊細な作業だ。
 さて、これらの歌の初出は二〇〇六年の第五回歌葉新人賞次席連作「今日」だった。この連作は今でもよく覚えている歌ばかりで、十年以上の時間が経ったことに驚く。当時、私は内山が指摘したようなことを「無機質」や「淡白」というキーワードで考えようとしていた。彼女の歌は当時、ひとつの新たな潮流を感じさせ、私に期待を持たせながら、けれど同時に淡白すぎるようにも感じていたのだ。そしていつの間にか十年が経った。この十年間について、先の時評の冒頭で内山は「……歌の世界は大きく変容し、歌をとりまく環境もそれ以上に変化した十年間だったのではないだろうか。そうした十年間の変化を越えて、仲田の歌集が『マヨネーズ』として一冊にまとめられたことは価値のあることだろう」と書いていてこの感慨は私にも深い。いま、こうして仲田の当時の作品を目にして、私が淡白すぎると感じていた歌が、流れてきたはずの十年間をよそに瑞々しくここにあることに私は気づく。内山はこうも書く。
 クリアになったモノの輝きが、この歌集にはあふれている。思えば日常とは、モノ
 に囲まれた時間であり、空間であるはずだ。仲田はそれらをクリアにすることで、
 間接的に日常というものをクリアに見せているのである。

 私はこれを歌集一冊にまで敷衍するのには留保があるのだが、仲田の歌の特質を語る上でとても重要なことを言っていると思う。仲田の歌が新鮮だと感じたのは、単に今の私の目にそう映ったというより、それは仲田の歌の特質がもともと内在していたもののように思うのだ。意味性は時代の影響を受けやすく、また古びるものである。それをあらゆる角度から払拭する仲田の歌はそれ故に淡白ではあるが、十年間、無傷のままクリアな日常を保存していたのではないか。

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