青蟬通信

それぞれに特有な/そして精いっぱいな/仕方 / 吉川 宏志

2017年6月号

 詩人の吉野弘さんは、二〇一四年に亡くなったが、一度だけ電話でお話ししたことがある。私は教材会社に勤めているのだが、吉野さんの詩を問題集で使用することをお願いしたのである。十年以上前のことだ。
 詩人には、問題集に詩を載せることを、快く思わない方も少なくない。その気持ちはよく分かる。「作者はどのような気持ちでこの表現をしたと思いますか。ア~エから選びなさい。」という問題は、(私も仕事上作ることがあるが)あまり気分的によろしくない。
 おそるおそるお電話すると、吉野さんはさらりと快諾してくださった。そして「お仕事大変ですね。まあ、なかなか許してくれない人もいるでしょうからね」とおっしゃったのが忘れられない。吉野さん自身も、長くコピーライターの仕事をされていたので、会社勤めの人間に対して同情的だったのではないか、と想像する。
 中学校の国語の教科書に、「岩が」という短い詩が載っている。
 岩が川の中で、流れに逆らっている。そしてその横を、「強靭な尾を持った魚」が流れに逆らって泳いでいる、という自然の風景を、吉野さんは描写する。そして次のように語る。
  逆らうにしても
  それぞれに特有な
  そして精いっぱいな
  仕方があるもの。
 このあたり、短歌の眼からすると、風景から思考へのつなぎ方が、ややストレートすぎるように感じる。短歌では、このような観念的な表現は嫌われるところである。この後に、
  魚が岩を憐れんだり
  岩が魚を卑しめたりしないのが
  いかにも爽やかだ。
と続くのだが、正直に書くと、やや教訓的に感じていた。
 ところが最近になって、この「岩が」という詩が、不思議に脳裏に浮かんでくるようになった。
 社会詠が話題になるたび、「短歌でいくら社会を歌っても無力だ」とか「文章で書いたほうがいい」とか「もっと強い表現をしなければいけない」といった言説が現れる。そうした意見にも、耳を傾けるべきところはあろう。しかし、「逆らうにしても/それぞれに特有な/そして精いっぱいな/仕方があるもの。」という吉野さんの軽快な言葉が、かえって胸に響いてくるのである。「いかにも爽やかだ。」と吉野さんはうたうが、この背後には、互いに卑しめ合う人間世界への悲しみが込められていたように思うのである。
 先日、沖縄で短歌のシンポジウムがあり、
  赤花(アカバナ)の映える青空特大の基地のハンバーガーが食べたい
                                 花本文香 
という若い世代の歌が話題になった。基地に反対する人の中に、こうした歌が許せない、と述べた人もいた。もちろん、その気持ちも分かるのだが、この作者にとっては「基地のハンバーガー」も日常の一部になっており、単純に全否定できないものなのであろう。ただ心の底には、米軍基地に馴化されていることを疑問に思う自己も存在していて、葛藤しつつこの歌を作ったのだと思う。「それぞれに特有な/そして精いっぱいな/仕方」は、やはりあるのである。
 もう一首、
  明日もまた辺野古へ行くと友のメール辺野古へ行けぬ我(あ)を責めもせず
                                 野原園子 
という歌もあったが、これもまさに、「岩が魚を卑しめたりしない」という関係だろう。
 吉野弘のこの詩は、
  流れは豊かに
  むしろ 卑屈なものたちを
  押し流していた。
という言葉で終わっている。流されているのは、具体的には水に落ちた葉っぱとかのイメージだろうが、小さな抵抗であっても、逆らうことをやめたとたんに流されてしまうことを歌っているように思う。
 ただ吉野さんは、「流れ」自体を、〈悪〉としては捉えていない――濁流のようには表現しない。すべてに平等で、透明なものとして、時の流れを描いているように思う。時間に対する信頼が、この詩の根底にはあるのではないか。

ページトップへ