青蟬通信

あいまいな時間 / 吉川 宏志

2017年5月号

 永田和宏さんの新刊の対談集『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(文春新書)は、若い人向けに、挫折をいかに乗り越えるかをテーマに語り合ったもの。たとえば、ノーベル賞を受賞した山中伸弥氏は、外科医になろうとしてうまくいかず、研究者としても苦渋の道を送る中で、iPS細胞を発見する。苦境の中でも初志を失わないこと。そして、失敗から学ぶという姿勢の大切さを、改めて知ることができた。とても読みやすいので、多くの人にお勧めしたい一冊である。
 その中で、将棋の羽生善治名人との対談で出てきた「二分の一手」という話が興味深かった。
 将棋は、自分が一手指すと相手も一手指す、というルールで、その中間はありえない。新聞の将棋欄などを見れば分かるのだが、
 ▲5六銀 △7三桂 ▲2五歩
 △3三角 ▲5八金
というふうに、すべて棋譜の記号で表せるデジタルな世界なのである。
 ところが羽生氏は、そこに中間的なものが存在するという。「二分の一手」という微妙な感覚をいかに捉えるかが、勝負の行方を左右する。
「局面が進んではっきりしてくる前の、まだあいまいな時間がある。(中略)日本語には助詞の「てにをは」があって、その使い方一つで意味や解釈が全く変わってしまうということと、なんだか私は非常に密接な関係があるように思っています。」
 羽生氏のこの言葉に、非常に惹きつけられたのである。私は将棋は全くの素人なのだけれど、次のように考えてみる。
  振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめんの菜の花
                       河野裕子『森のやうに獣のやうに』
 この歌の生命は、「追憶の」の「の」の一字にあると言っていいのだが、この助詞もとてもあいまいなものである。「の」の後に何があったのか。作者が言わなかったものが、この歌に不思議な奥行きを生み出している。歌をどう読むかによって、「の」の響きは大きく変化する。
 将棋の場合も、勝負の途中には、相手がまだ何も指していない時間があって、未来はいくらでも変化していく可能性がある。羽生氏の言う「あいまいな時間」とは、それを指しているのだろう。
 もちろん、勝負が終わった後には、すべてが決定してしまうのだが、途中の時間には、一手をさまざまに読むことができる自由さが生じている。どのようにでも読みを変えられるという自在さが、将棋のいきいきとしたおもしろさを作り出していると言っていいのではないだろうか。
 「追憶の」の「の」をさまざまに読むことができる、というのもそれにつながっている。どのように解釈するか、という〈未来〉は、読者に委ねられている。まだ決まっていないという「あいまいな時間」を体感することが、歌に生命力を与えることになる。逆に言えば、教科書のように、一つの答えに収斂させてしまう読み方は、歌の味わいを殺してしまうのである。
  突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
                           塚本邦雄『日本人霊歌』
 結句の「眼」は「まなこ」と読むのが通説であるが、私は「め」と読むほうがいいのではないかと考えている。「まなこ」だと、上の句の「なまたまご」と響きが合いすぎて、べったりとした感じになるように思う。むしろ「へいしのめ」と字足らずで読んだほうが、鋭い音感になり、歌の内容とも一致する。
 これはあくまでも私の考えなので、反対する人があっていい。ただ、答えは一つに決まっているのではなく、別の方向もあるのだ、という広がりや余裕は持っておきたいのである。
 言葉も「記号」なのだとよく言われる(記号だから、コンピュータで扱うことができる)。しかし、デジタルな記号から、無限の意味を汲み出すのは、人間の読む能力なのである。記号という無時間的なものに、生命につながるような時間性を与えることが、「読む」という行為の本質であるのかもしれない。

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