短歌時評

連作の新たな領域について思う(Ⅲ)「温泉」五十首について / 花山 周子

2017年5月号

・雲仙の湯に来て外にきくこゑのヒグラシ涼しわれも裸ぞ
・だくだくと湧きたるみづをわがうちにとりこみながら酒と成すべし
 こういう文語旧仮名の立派な歌が「九大短歌」四号(二〇一六年十月発行)の山下翔の五十首の連作「温泉」のなかには散見される。とても学生の歌とは思えない朗々たる歌いぶりである。一方で、私がこの連作の何首かを読み始めたときの印象は、なんて下手なんだ、ということだった。冒頭の四首を引いてみる。
・キキのゐない夏と知りたりああやつと慣れたのに吠えるのも舐めるのも
・犬がゐると知つて帰らうとした日よりきみの家との付き合ひつづく
・ばあちやんが死に犬が死にあとなんど死に立ちあふかわがこととして
・刺身選るときいろいろの顔おもふきみに頷きながらついてまはれり
 なにか、口語とオーソドックスな文語文体がぎこちなく交じり合い、はみ出して、説明過多でありながら、しかも状況はわかりづらい。それなのに、下手という以上に自分は何か驚かされながら読み進んでいた。この人は歌の背後にある強い思いを何一つ手放さずに詠おうとしている。そう思わされるのは、たとえば、
・どの辺に家ありしかとおもひながらきみが背に付き歩めりわれは
・ただいまときみが言ふ家の暗がりをこんにちはと明るく言ひて通りぬ
 どちらも「ながら」や「明るく」が定型からはみ出しているだけでなく言い過ぎの嫌いがあるのだが、しかし、ここを「おもひつつ」とし、「明るく」を取ってしまったならば、歌の動機そのものを手放すことになるのだ。この道を歩きながら彼はおそらく緊張している。「おもひつつ」などとなんとなく思っているのではない。きみの背後に付きながら、彼の周辺への関心はいま強く働いているのである。次の歌でも当然その緊張は続いていて、だから、彼は「明るく」言ったのだ。きみにとっては自分の家だが、彼にとっては違うわけで、出迎えもない人の家の暗がりで、誰に届くとも知れない挨拶を彼は明るく言ったのだ。その時、その場に置かれることではじめて生じる人の心理というものが、異様なほど手放さずに、そして言葉によって処理されずに描き起こされてくるのである。
 個人というものにどれだけの強固な個性があるのか。寧ろ個人の内部においては、自分というものはその場で生じる心理の連続でしかない。そういう極めて現象的な心理というものが彼の連作では読み進めるうちにある種、実存的に際立ってくる。そのときに概括的な個人というものは寧ろ見えづらくなる。この連作は写実性を有したオーソドックスな歌のかたちをとりながらしかも主語や登場人物はどこか淡く、歌によっては彼らが入れ子になっているような印象すら受ける。ある意味で破綻もしている。けれど破綻ではないのだ。
 この連作はある二、三日のことをドキュメントタッチで詠っている。読み終わるころには、それがひとつのストーリーとしても浮かび上がり、最終的には主体の複雑な心理はそのストーリーに則るかたちでごく普遍的に読者に手渡されることになる。この大学短歌誌に掲載された作品は既に時評などで何人もの人に取り上げられている。こんなことは今まであまりなかったと思う。その多くはストーリー性に依って作品を紹介しているが、惹きつけられている理由はたぶんそこではない。私は、この連作を昔、長塚節が茂吉の赤光の一首一首を鑑賞したように、一首ずつについて書いてみたい気持ちにかられている。

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