青蟬通信

筆は一本、箸は二本 / 吉川 宏志

2017年4月号

 三月書房の宍戸恭一氏が、一月二十二日に亡くなったことを知った。九十五歳だったという。
 ご存じのとおり、三月書房は詩歌や思想書が、古くて狭い店舗にぎっしりと並んでいる様子が有名であった。京都の寺町二条を上がったところにある。歌人がしばしば歌に詠んでおり、『京都うた紀行』(河野裕子・永田和宏)の中でも、歌枕として取り上げられている。
 私が大学生のころ――もう三十年も前だが――、月に一回、ここに行くようにしていた。というのは、当時はあまり金を持っていなかったからで、ついつい本を多く買ってしまい、月末に困窮するからであった。宍戸さんが「これも読まなければなりませんよ」というふうに言うので――やはり吉本隆明が多かった――、買わざるを得なくなってしまうのである。
 歌集は、宍戸さんの後ろの棚に並べられており、どの本を買おうか悩んでいると、面白そうな顔をしながら、ちらちらと見ている。河野裕子さんは、『私の会った人びと』の中で、
「宍戸さんがパイプたばこをくゆらせながら本に目を落としている。ときに視線をずらして目を上げるときの視線が、うわあ、怖い。」
と語っているが、まさにその通りだった。何を買うかで、客の力量を測っているようなところがあった。
 このときに買った歌集は、何度も繰り返し読んで、初心のころの糧になった気がする。永田和宏『黄金分割』、河野裕子『桜森』、高野公彦『雨月』など。最近亡くなった稲葉京子さんの『しろがねの笙』もここで買ったはず。西脇順三郎の画集も置かれており、高価で買わなかったけれど、当時のあこがれだった。
 宍戸さんとは、よくお話をしたが、当時の私には難しくて、うまく思い出せないのが残念である。ただ、会社に就職をする前に、「筆は一本、箸は二本と言いますな。」と言われたことは、はっきりと覚えている。
 「筆は一本」というのは、文学だけで生活していくことを表している。それは一見よいことのようだが、書きたいことが書けなくなってしまう危険性も生じる。たとえば、自分が経済的に利益を得ているところの批判は、なかなか書けない、ということが起きるわけである(テレビが、スポンサーの企業を批判する報道ができないのと同じ構図である)。
 しかし、文学以外の収入があるのなら、恐れずに批判することができる。「箸は二本」、つまり、職業と文学を両立させよ、というのである。
 歌人は、短歌だけでは生活できない、というのはよく言われることだ。だから短歌はダメなのだ、というふうに、短絡的に結論づけられることもある。悔しいが、反論しにくい。
 宍戸さんは、就職する若い私に対して、仕事をしながら文学をする道もあるんだよ、ということを言いたかったのだろうと思う。生業を別に持つことを、恥じることはない。
 実際に会社に入ってみると、毎日疲弊してしまうし、仕事の内容に触れるようなことは、かえって書きにくい、ということもある。なかなか現実は厳しい。が、ここに踏みとどまるしかない。
 宍戸恭一さんは自著『現代史の視点 〈進歩的〉知識人論』で、
「知識人が現実の社会構造(実生活)に直面し、自己の思想の空しさを自覚したとき、〈疲れたので一休み〉したり、あるいは〈亡命〉するという特権を行使する限り、その知識人は疑似知識人でしかありえない。」
「自己のペースにあった抵抗のよりどころを求め、そこを仕事と生活の統一の場にすることが、〈知識人の自己自立〉への第一歩なのである。」
と書いている。難解な文章だが、ごく簡単に言えば、生活と思想が別々のものであってはならない、思想とは実生活に裏打ちされることで本物になる、ということだろう。宍戸さんと雑談しているときにも、同じテーマの話を、何度もうかがった。
 これは、短歌の社会詠でも同じであって、いくら正しいことを歌っていても、生活と乖離してしまっては、言葉は力を持たない。
 宍戸さんの言葉に、私は知らず知らずのうちに影響され、それが支えになっていったように思う。

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