八角堂便り

井上隆雄さんの言葉 / 前田 康子

2017年4月号

 最近ミラーレスのカメラを持って、あちこち何でも気持ちの赴くままに撮っている。デジタルカメラだから気に入らないものはどんどん消して、気に入ったものだけをSNSにあげたり絵手紙のようにカードにしてみたりと自己満足の世界だ。コスモスだけを何度も撮ったり、水たまりに映るものに執着してみたり、集中するあまり川にはまったりジーンズの膝がやぶけたり……。小さななずなのような花がフレームの中で光や風を受けたとたん主役になる。単に私はそれが好きだ。「フォトセラピー」という言葉の確かな定義はわからないが、自分で自分の写真に癒やされていたりもする。
 ところで昨年の七月、写真家の井上隆雄さんが亡くなられた。私の両親と同じ昭和十五年生まれだった。今回あらためて「塔」二〇〇六年九月号の対談「ものを見る眼」を読んでみた。この対談は短歌と写真がリンクする所が多いということに、初読時驚いたことを覚えている。井上さんの印象的な言葉を抜き書きしてみたい。
・限ることによって、また次の限りを作り密度が高まる
・ミクロがマクロを語り得る
・説明せずに想像させる
・無意識が大事
・自然界は意識の世界では読み切れない
・絞り上げられた焦点そのものが作者
・諦めの美
・被写体を前にして素直であること
・写真は嘘という真実
 永田和宏とのこの対談は、始めから用意されてきたような言葉のやりとりでなく、二人が話しているうちにどんどん熱く表現について考え、手探りで進んでいくようななまな感じがあった。例えば「諦めの美」などというのはすごい言葉だと思う。「諦めは放棄ではなく単純化への自己コントロールの一つ」とも言い「諦めこそが拘りを捨て開き直ったエネルギーになる時がある」と。この考え方は短歌にも通じるし、俳句にもさらに通じるような気がする。定型という枠でたくさんの言いたいことを諦めて、勝負する決定を常に繰り返し、それは最終的には表現の美やエネルギーへとつながって行っているのだ。「被写体を前にして素直であること」、私はこの言葉も好きだ。詠もうとする素材に偏見や思い込みがあっては、半分はそれで独自の表現を奪われてしまう。素材に自ら従順になると別の見方が生れてくる時がある。
 井上さんの写真集に『ある事実』という一冊がある。畑や山の中にある粗末な小屋やガードレール、トタンや剥がれた壁、小さな杭。伝わってくるのはものの質感、流れていった時間や季節、確かにそこに人間が触れていたという痕跡、朽ちていくものへの感情である。写真家がこの世を去っても、言葉も音も持たない写真がそれを淡々と表し続けている。

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