青蟬通信

越表 / 吉川 宏志

2017年3月号

 新婚だった父は、坪谷(つぼや)中学越表(こしおもて)分校に赴任し、そこで私は生まれた。昭和四十四年のことである。宮崎県の坪谷は若山牧水が生まれた山の中の村だが、越表はそこからさらに山奥に入っていったところにある。小丸(おまる)川という渓流があり、陰影の深い山が連なっている。とても美しい土地だが、当時の生活は大変だったようで、雨が降ると蛇口から出る水が茶色になった。そう母が話していた。
 山道も細く険しくて、一度だけ祖母が訪ねてきたそうだが、バスの窓をふと見ると、崖の上に浮いているようだった。それから決して祖母が来ることはなかったそうである。
 この越表に私は三歳まで暮らした。学校で飼われている鶏をよく見に行っていたらしいが、まったく記憶がない。ただ、朝の便所の窓から、白い霧が山肌を這うように昇っているのを見たことは覚えている。「原風景」という言葉があるが、それは自分の中になまなましく存在している。私が現在住んでいるところも、山霧がしばしば見える。幼いころに見た風景に影響されて、今の住処を選んだ気がしないでもない。
 父は越表が好きだったようで、そこから転居した後も、ときどき家族を連れていった。父は鮎を釣り、私は冷たい川で泳いだ。そのころは古い吊り橋があって、橋の板にすきまが幾つもあり、青緑の川面が覗いていた。怖かったけれど、美しい色だった。カジカという蛙が、鈴のように鳴くのを初めて聞いた。
 若山牧水という名前も、集落の茶飲み話でときどき聞くことがあった。たしか「牧水」という焼酎も売られていた。ただ当時は評判が悪く、「あれは親不孝者で……」と村のおじいさんがけなすのを聞いた記憶がある。
  ふるさとの尾鈴(をすず)の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
                                『みなかみ』
という歌は、知らず知らずのうちに覚えていた。国語教師の父は「『かすみ』は本来、春のものだ。それを『秋も』と歌っているところに味わいがある」とよく言っていた。その解釈が合っているのかどうかは分からないが、たしかに南国の宮崎の秋は、どこか春のような温かさが感じられる。紅葉もあまり多くなく、明るい寂しさのようなものが漂っている。牧水のこの歌の「かなしさ」は、皮膚でわかるような気がするのである。
 今年の二月、若山牧水賞を受賞した機に、二十数年ぶりに越表に行った。山はまだ寒々としているが、あちこちに白梅が咲いている。しみじみと懐かしさが湧き上がってくる。「卸児(おろしご)」「児洗(こあらい)」など、不思議な地名がこの辺りには残っていて、一緒に車に乗っている父母が、その由来について話し出す。
 地元の方が三十人くらい集まって歓迎会を開いてくださり、猪汁や鮎の塩焼きなどをご馳走になった。ほんとうに美味しくて、今もこんなのがいるのか、とびっくりするくらい大きな鮎を食べさせていただいた。鮎釣りの名人がやはりいるらしい。
 「あのころは涎を垂らしていたのに、まあ大きくなって」とか「かぶと虫を捕まえてあげたのをおぼえていなさるね」と声をかけられる。恥ずかしく懐かしい気分である。当時、私をかわいがってくれていたお姉さんが、早くに亡くなってしまったことも聞いたりした。
 越表の区長さんが、竹細工の達人だそうで、青竹に、私の歌を彫ったコップを作ってくださった。
  耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花
                              『鳥の見しもの』
 「南スーダンの情勢などを見ていると、この歌がすごく響いてきた」とおっしゃっていて、これも忘れられない言葉となった。
 父が勤めていた分校はもう無くなり、広い校庭だけが残っている。その一角に、南高梅を記念に植樹していただいた。鹿が多いので、周りに網を張り巡らせる。「梅の実がなったら送りますよ」と言われる。「花が咲いたらまた来てください」「五年くらいかかりますかね」。
 昔泳いだ川の向こうに、切り立った山が並んでいる。霧は今日はかかっておらず、早春の光がやわらかく、斜面や裸木を照らしている。

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