青蟬通信

『涙香迷宮』と「いろは歌」 / 吉川 宏志

2017年2月号

 高校生のころ、黒岩涙香の『鉄仮面』を読んだことがある。当時は旺文社文庫というのがあって、ずいぶん珍しい作品を揃えていた記憶がある。涙香は明治時代に『萬朝報(よろずちょうほう)』という新聞を創刊した人であるが、『鉄仮面』や『噫(ああ)無情』(レ・ミゼラブル)などの海外の小説を、自ら翻案して、連載した。それが江戸川乱歩などに大きな影響を与えていく。
 『鉄仮面』の翻案の仕方はいっぷう変わっていて、モーリス・アルモイスといった人名を、有藻守雄(あるももりお)のように、日本人の名前にするのである。ヒロインのバンダは■〔女偏に兮〕陀嬢と表記される。言葉遣いは「……なり。」の堂々たる文語調である。ルイ十四世の統治下のフランスを舞台にした小説なのだが、日本の時代劇のような雰囲気もあり、不思議な面白さがあった。
 さて、昨年に刊行されたミステリで大きな話題になったのが、竹本健治の『涙香迷宮』である。正月休みにやっと読むことができたのだが、とても愉しい一冊だった。
 涙香は、遊びの天才と言ってもいいような人だった。五目並べのルールを整備して「連珠」というゲームを作り出した。百人一首を用いた「競技かるた」のルールを統一し、明治三十七年に第一回の競技かるた大会を開催した。新聞に将棋・囲碁欄を作った。このように、現代につながる遊戯の基盤を築いた人なのである。新聞紙上で暗号を発表し、宝探しをするゲームも実施したという。
 涙香は、新しい「いろは歌」を読者に作らせて、募集する企画も行っている。あいうえお……に「ゐ」「ゑ」「ん」を加えると、四十八字になる。(五+七)×四=四十八だから、五音・七音の組み合わせで、ぴったり歌が作れる。それが涙香の発明だった。
 『涙香迷宮』は、涙香が遺した四十八首の「いろは歌」が、非常に複雑な暗号だったという話である。その暗号をめぐって殺人事件が発生し、若い囲碁の棋士が謎に挑んでゆく。
 もちろんこれはフィクションであり、「いろは歌」はすべて作者の竹本健治が作っている。すごい労力が必要だったと思うが、どれも見事な出来栄えで、ほとほと感心させられる。
 一首だけ引用させていただく。
 
 紫陽花植ゑし 花園を
 濡れ縁光り 夜目に見む
 露置く窓辺 色透けて
 藁葺き屋根も 越せ蛍
 
 あちさゐうゑし はなそのを
 ぬれえんひかり よめにみむ
 つゆおくまとへ いろすけて
 わらふきやねも こせほたる
 
 作ってみると分かるのだが、このように無理がなく、情景が目に浮かぶ歌を作るのは、非常に難しいのである。「紫陽花」、「蛍」と季節を揃えているのが美しくみずみずしい。
 『涙香迷宮』には、塚本邦雄の兄の塚本春雄が作った「いろは歌」が紹介されていたり、「ゐ」や「ゑ」を使わず、促音の「っ」と長音の「ー」を用いる「口語新仮名いろは」の提唱者として、歌人の千葉聡が紹介されたりしている(山田航(わたる)の作品も登場する)。そういえば、容疑者の中に永田靖宏(やすひろ)という人も出てくるのだが、これは偶然なのだろうか。
 歌人であれば、特に好奇心を掻き立てられる一冊だと思う。
 これを読むと、自分でも「いろは歌」を作ってみたくなるではないか。
 竹本健治氏に教えられたことだが、俳句十七音と短歌三十一音を足すと、ちょうど四十八音になる。つまり、俳句+短歌という形式でも「いろは歌」は作れるのである。
 そこで、「早春の塔」をテーマにして作ってみた。粘り強く考えれば、何とか出来上がるものである。皆さんも、ぜひ作ってみてください。
 
 白すみれ三重(さんぢう)の塔そびえゐつ
 
 山風で大池(おほいけ)に泡ゆらめきぬ
 鳩啼く声も眠りを呼べる
 
 しろすみれ さんちうのたふ
 そひえゐつ
 やまかせて おほいけにあわ
 ゆらめきぬ はとなくこゑも
 ねむりをよへる

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