短歌時評

断絶と連続と Ⅰ / 花山 周子

2017年2月号

 東日本大震災からもうすぐ六年。昨年八月には震災後の河北新報歌壇の歌六五〇首をまとめた『震災のうた―1800日の心もよう』(河北新報)が出版された。二二四名の作者のなかには何首も掲載されている方も多く、アンソロジーとは言え、何人もの人の歌集を並行して読んでいるような感覚があった。十二首掲載されている仙台市宮城野区の金野友治さんという方は、
・まだ沖に瓦礫有るらし荒れる日は岩場の陰に大量の泡浮く     二〇一一年 
・浜からの風吹く夕べは二千個の便器のがれきも潮の香匂う     二〇一二年 
・五六台の重機が瓦礫をばっくりと吐き出す一瞬粉塵空へ飛ぶ    二〇一二年 
など、震災後の印象的な叙景歌を繰り返し読んでおられる。その金野さんの一三年の、
・田も畑も見渡す限り沼となり遺体浮く見ゆ三月十二日
という作品に出会ったとき、私はそれまで読んできた金野さんの叙景歌の瓦礫に金野さんがずっと見ていたものを知った。写実に徹した彼の作品には、震災後の断片化した時間が鮮明に留められていると思う。
・もはや人は故郷の町の断片を引き寄する如く潮風をかぐ
                          二〇一一年 千葉かの子 
・二階よりヘリに拾われ雪の夜の避難飛行すあれから三年
                          二〇一三年 中山くに子 
・東京の高層ビルを見て思ふいつか瓦礫の山となるのか
                           二〇一五年 佐藤清吉 
・なんだかね自分もガレキになっちまった ガレキはガレキを片付けられない
                           二〇一六年 熊本吉雄 
 紹介したい歌は山のようにあるが、この一冊について語ろうとするなら、作者一人一人に流れる時間は一様ではなく、その起伏こそが震災以降の時間を物語っている。一瞬にして過去になった故郷。何も語られない「あれから三年」。今あるビルが瓦礫になることを思う感覚。熊本さんが「自分もガレキになっちまった」と呟いているのは震災から五年後だ。
 そしてこの歌集を読みながら一方で私が強く意識させられたのは、震災以前という時間の存在である。花山多佳子は『震災のうた』のあとがきで、震災直前に河北歌壇の特選に採っていた二首を紹介している。
・ゆつたりと二隻揃(そろ)ひて綱をひくいさだ漁なりかーんと蒼空
                             大船渡 増田邦夫
・水揚げの朝のラッシュも静もりて覆いしシートはためきており
                            気仙沼 小形みつ子
 増田邦夫さんの歌は『震災のうた』に次の一首だけが掲載されている。
・まれにみる良港なりしと人の云う災害ののち入る船も無く     二〇一一年 
 「いさだ漁」の歌と照らし合わせるときこの静かな詠いぶりが一層さびしい。
 昨年の三月十一日に出版された斉藤梢エッセイ集『うたの箱 ことばの箱』のなかにとても印象的な記述があった。斉藤さんは閖上のマンションで被災された。
 市役所の駐車場で数日を車泊したのち、津波がおしよせてきた自宅に戻ってみる
 と、食卓に一枚のメモがあった。「ハミガキ粉、ビール」と。(略)三月十一日の
 夕方に買うはずだったものの名前が、倒れたり壊れたりしたものの中に、無償で明
 るく残っていた。それはとても、平凡で平和な文字だった。
 「あの日、買えなかった『ハミガキ粉、ビール』を買うことは、もうない。」と斉藤さんは書いている。あまりにも大きな大量の喪失のあとで、失ったことさえ意識にのぼらない喪失がある。そして、そういう瑣末なものの積み重ねが作り上げていた震災以前の生活がある。そういうものを言葉はときに蘇らせる。

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