青蟬通信

戦争とミステリ、『魔王』 / 吉川 宏志

2017年1月号

 十一月にNHKのBSで放映された「深読み読書会『犬神家の一族』」がとてもおもしろかった。映画化されて有名な横溝正史の探偵小説を、現代の目で読み直す企画である。
 『犬神家』の連載が始まったのは一九五〇年。敗戦の爪痕がなまなましく残っていた時期である。作家の関川夏央氏は、当時の小説の中で扱うには憚(はばか)りがあった傷痍軍人の問題を、いち早く扱っていることを指摘する(『犬神家』では、戦争で顔を傷つけられた人物が誰なのかが、大きな謎となる)。
 横溝は、非常に戦争が嫌いだったようである。戦時中は、探偵小説は不謹慎だということで弾圧の対象になった。戦争によって自由な言論を奪われることを、横溝は切実に体験した作家の一人だったのである。
 戦後になって自由に探偵小説を書けるようになると、横溝は戦争をストーリーの中で巧みに利用するようになる。『獄門島』や、私の好きな『夜歩く』もそうであろう。
 ミステリ作家の綾辻行人氏が「戦争への復讐」と語っていて印象的だった。戦後、まっすぐに軍国主義を批判する文学が生まれたが、それとは異なる、屈折した形での戦争批判も存在したことが、今になって見えてきたということだろう。
 犬神家は戦争成金であったこと、事件の中で用いられる「三種の神器」が実は金メッキであり、そこに天皇制への批判がうかがわれることなど、おもしろい指摘がいくつもあった。
 さて、最近は古典的なミステリの新訳も盛んに行われており、とても嬉しいのである。ディクスン・カーは、横溝に影響を与えた作家の一人だが、ずっと絶版になっていた『貴婦人として死す』が、創元推理文庫から発刊された。一九四三年の作品で、ナチス・ドイツの空襲におびえるイギリスの田舎町で起きた殺人事件を描いている。とても意外な犯人で、私は完全に騙されてしまった。
 この文庫の解説を、山口雅也氏が書いているのだが、「ミステリ作家は、どんなことでもミステリに利用してしまう――たとえ人類最悪の惨禍であっても」「大戦の影をも、しっかりミステリの仕掛けに取り込んでしまっていたりする」という表現が見られる。ミステリと戦争について、共通した指摘があって興味深い。
 戦争の悲惨さを描くことは、文学の重要な役割であることは間違いない。ただ、それだけだと文学は戦争の影響下に置かれてしまう。あるいは文学が戦争の後追いになってしまう。そうではなくて、文学が戦争を利用するという逆転も、時には必要なのではないか。そんな問題意識が、横溝やカーの小説を通して見えてくるのである。
 もちろんこれは非常に難しい問題である。戦争を軽々しく扱っていいのか、という非難も、必ず生じるだろう。塚本邦雄の後期の歌を思い出す。
  海征かばかばかば夜の獸園に大臣(おとど)の貌の河馬が浮ばば
                           『魔王』(一九九三年)
  銃後十年かの一群をぼくたちは罪業軍人會(ざいごふぐんじんくわい)と呼びゐき
といった駄洒落のような歌を、塚本が急に発表するようになり、私はとても戸惑ったのだった(若い世代向けに書いておくと、一首目は軍歌の「海征かば」、二首目は「在郷軍人会」のパロディ)。なぜこんな悪ふざけのような歌を作るのか、当時はよく理解できなかったのである。
 だが、前述したことをヒントにすると何となく分かることがある。塚本は、〈戦争に利用される自己〉というものを認めようとはしなかった。そうであるくらいなら、逆に自分が戦争を利用しようとした。善悪を超越した「魔王」という存在を理想とした。「歌人は、どんなことでも短歌に利用してしまう――たとえ人類最悪の惨禍であっても」というのは、まさに塚本邦雄に当てはまる。
 それから「海征かば」といった言葉によって戦死が美化された愚かしさを、後世に伝えようとする意志もあったに違いない。
 戦時中に使われていた言葉が忘れられると、言葉によって踊らされ支配されていた時代のことも忘れられてしまう。そんな危機感が塚本にはあったのである。

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