短歌時評

熊本地震の歌 / 花山 周子

2017年1月号

 昨年末の時評では書き切れなかったことが多く、評論というかたちで「塔」に続きを書かせていただくことになると思う。その他にも気になりながら書けずにしまったのが熊本地震の歌である。「現代短歌」八月号でも特集されていて、大変な状況にあってその自然の脅威を詠いあげるような力強いスケールの大きな作品が印象的だった。
・呼びかへせどかたちもあらぬわが家郷激震七の闇握り占め      清田由井子 
・握る手はどこぞと呼びて一命を未明の星の下に賜はる
 齢八十で南阿蘇村に一人居であった清田さんのご自宅は倒壊したのだ。そのときのことがこのような迫力で詠われていて、何か神々しさのようなものまで感じさせられる。
・揺るるたび瓦解してゆく自が家を見つつ嗚咽せり老いし夫婦は    楠田 立身 
・倒壊家屋の中より救はれし八カ月の嬰児の瑞々しきエネルギー
 楠田さんは故郷である益城町の惨状を詠う。離れてはいても故郷と心情が一体化したような揺るぎのない詠いぶりに感じ入る。
・をかしさよ 火神恐るるたまゆらは揺らす地母への恐怖は忘れ    大友 清子
・一生かけ待ちゐし際(きは)に遭ふごとく胸はとどろく 喜びに似て
 その場に際しての昂奮状態が二つの側面から詠われる。一首目の、バランスを欠いた状況把握。二首目では「一生かけて待ちゐし際に遭ふごとく」と詠う。怖ろしい出来事が、起きた瞬間から人に運命的に感知される。内部から起こるこの異様な逆転に人間の本質を見たような気がした。何より胸のとどろきが喜びにも似ているという気づきが怖ろしい。
 地震の性質のためか、あるいは土地柄もあるのか、熊本地震を直接に体験した人の歌には「天地」や「やまたのおろち」のような語彙が多く使われ、個人的な感慨を越えて宇宙や神話的な規模でこの災害がまず把握されている。そこには未曾有の天災に際しての興奮が漲っていることもさることながら、読んでいると何か原初的なエネルギーに触れているような感覚さえあった。
 浜名理香の連作「熊本地震二夜から三夜」は父の家に泊まっていたときに起きた本震とその後をドキュメントタッチで詠っている。
・眠い眠い父にズボンを穿かせおり懐中電灯の光のなかに       浜名 理香 
・洗濯の水はないのに昼前に五枚目のパンツ父が替えおり
・災害だろ。ぎゃん時(とき)ゃ飯(めし)ば食うとかなん。父がお代わりの茶碗突き出す

 災害の中にあって老いた父を抱えることの大変さはあまりある。一方で、被災に際しても微動だにしないマイペースな父の存在が大木のように安堵させてもくれる。
・なあんかい何(なん)ば泣くかい、ようし良し。背中とんとんするごとき声
 一連の最後の歌。浜名さんは泣いている。それを、「なあんかい何ば泣くかい…」となぐさめる父を詠う。熊本地震の歌を読みながら私が心打たれたのは、生き難い世に、この父のように武骨で逞しい存在が立ち現われているためかもしれない。
・二リットルの水をそれぞれ運び来て嬉しげなりよ被災の子らは
                            矢澤麻子「塔」八月号
・地の下に突き上げてくる力あり地は生き物と思い始める     「塔」十一月号
 矢澤麻子さんは幼い子供を抱え、震災後の日々を淡々と詠い続けている。非日常に子供たちも一種の昂奮状態にあるのだろう。「嬉しげなりよ」と素朴に詠うところに疲労の中のしみじみとした気持ちが過る。二首目なども詠い口に柔らかな感性の優しさが滲むのだ。

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