青蟬通信

『細雪』を初めて読む / 吉川 宏志

2016年12月号

 今年は四十七歳になって初めて『ベルサイユのばら』を読んだ。この「〇〇歳になって初めて□□を読む」というのが、自分ではとても気に入って、第二弾をやってみた。
 谷崎潤一郎の『細雪』は以前から薦められていたのだが、あの分厚さに恐れをなして手をつけずにいた。上流階級のお話で、自分にはとても合わないと思い込んでいたのである。しかし実際に読んでみると、非常におもしろく、半月ほどで読了した。やはり名作と言われるものには、名作の理由があるものだと思った。
 『細雪』は大阪船場の蒔岡家の三女、雪子の縁談をめぐって話が進んでいく。雪子は美しく優しい娘だが、大人しくてはっきりとものが言えない性格。次女の幸子は夫の貞之助とともに、見合いの席を設けるのだが、どうもうまくいかない。
 戦前なので、結婚にも家長(父は亡くなっているため、長女・鶴子の夫)の承認が必要である。昔は名家だったというプライドがあるから、相手がどんな家柄かに拘泥する。このあたり、読んでいて苛立つところ。また、雪子にも積極性がないので、結婚になかなか踏みきれない。
 見合いを断ったり断られたり、というのが妙にスリリングで、何でもない話なのに、ぐっと引き込まれる。考えてみれば、私たちの日常も、とても小さなことに振り回されている。些細な出来事であっても、文章の表現によっては、強い切迫感が生まれるものなのである。雪子の電話の応対がまずかったために破談になってしまう場面。貞之助がその詫び状を書く場面など、やたらハラハラさせられる。自分の家の中で起きていることのように感じてしまう。
 このあたり、歌集も同じで、登場人物に共感していると、ちょっとした事件であっても、すごくどきどきさせられる。読者を巻き込んでいく筆の力が、やはり大切なのである。
 主に平穏な日常を描いた小説だが、ときどき意外な人が死んだり、水害に巻き込まれたりする。人間の生活は、大きな危機と紙一重であることも、『細雪』は感じさせるのである。これも、優れた歌集と共通する部分かもしれない。
 四季折々の美しい場面も多い。蛍狩りの描写は特にすばらしかった。おもしろいのは、現在形ではなく、夜寝る前の幸子の回想として書いている点である。「……でも蛍狩というものは、後になってからの思い出の方がなつかしいような。」と、幸子に呟かせているが、美しいものは目の前にあるときよりも、過ぎてしまってからのほうが、鮮やかに目の中に浮かんでくる。布団の中で、さっき見たばかりの蛍を思い返している文章は、柔らかく儚い光に満ちている。
 それは、幸子の母の死を描いた箇所にもつながる感覚である。
「それは悲しみには違いなかったが、一つの美しいものが地上から去って行くのを惜しむような、いわば個人的関係を離れた、一方に音楽的な快さを伴う悲しみであった。」
 音楽とは常に過ぎ去ってゆくものだが、失われることは、美に音楽性を与えるのだと、谷崎は考えていたのであった。
 『細雪』には、戦争の影もしばしば射している。姉妹が汽車に乗っていると、若い陸軍士官が後ろ向きのままシューベルトの「野薔薇」を歌い出すシーンがある。顔を見ることもなく、士官と姉妹たちは合唱し、何も話をせぬまま別れてゆく。現実にはちょっとありそうもないけれど、印象深いエピソードである。
 大きな戦争が迫っていることを予感し、兵士も日常の中にある美しいものを愛おしんでいるのであろう。やがては空襲で町は焼け、多くの若者は死んでいくのであるが、その寸前の時代の懐かしさや和やかさを、谷崎は丁寧に掬い取っている。
「時雨(しぐれ)やよってに、じき止むわ、きっと。――青いとこが見えてまっしゃ
ないか。」
 こんな大阪の話し言葉が、じつにみずみずしく響いてくる。生活の中の会話と結びついているからこそ、時雨などの自然の風物は光彩をもつ。季節を語る言葉の大切さを思うのである。

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