短歌時評

連作の新たな領域について思う / 花山 周子

2016年10月号

 先月私は、アンソロジーによって「短歌が普遍化を果たすこと、それは皮肉なことに、岡井隆が言ったところの〈ただ一人だけの人の顔〉を剥奪されるときでもあるのではないか」と書いて、それがずっと引っかかっている。私はこの〈ただ一人だけの人の顔〉を文学や芸術一般における作家性というオーソドックスな話に故意にすり替えてしまっていたように思う。岡井はここでは短歌の特性に言及しているのであり、また「それが即作者である場合もそうでない場合もある」と、どうとも取れる注記をしている。八月に『「短歌」はどういう「詩」か』というシンポジウムが行われてその中で斉藤斎藤は「短歌は私性は本質的じゃない。一人称性(ある一人の人間が内側から世界を把握している)が本質的」(筆者メモ)というような発言をしていて、岡井が言う〈ただ一人だけの人の顔〉はこれに近いのか? そうすると、たとえアンソロジーに組み込まれた歌がもとの文脈を失おうとも、〈ただ一人だけの人の顔〉を剥奪されたことにはならない。このは短歌の生理が自動的に発生させる、つまり先月触れた歌集『洞田』から発生したとも重なるものなのか。
 いずれにせよ私は短歌にあってはその作品の作家性●●●の話と作者本人●●●●の話と私性●● がどうかすると混同される現象に苛立っていてああいう書き方をしてしまった。
 今年の短歌研究新人賞の次席作品「長い合宿」がとてもよかった。作者は山階基。現代の若者がルームシェアをはじめる。そういう短編的なストーリーで読ませる。選考座談会では穂村弘が「連作をわかりやすくするためには、ある程度、情況説明用の歌が挿し込まれている必要があって、それが捨て駒になりやすい。(略)この連作はそこをうまくクリアしています」と指摘する。短歌連作に説明的な捨て駒歌が投入されると、即座にその世界のリアリティが削がれ、しらけることがままあるけれど、この連作では特に登場人物の描き方でその世界のリアリティを立たせているところ、今までの短歌連作とは質を異にした完成度を獲得していると感じた。たとえば、母と父の歌のそれぞれのリアリティがおもしろい。
・うちを出る? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ
・ともだちと住む生活の想像はできていますか。父は問うだけ
 ここでの描写からは、母や父の人物像にとどまらず、こういう父を持つことの心理、この親子の来し方、そういうことが細やかに想像される。連作の前後左右に広がる空間的時間的なリアリティが言外のところで繊細に紡ぎ出される。この人がルームシェアにいたる風景がある。
・ポケットに両手を入れてかけて来る閉じかけのこうもり傘みたい
 ルームシェアの相手と思われる人のこの身軽さ。身軽であることのあてどなさ。こういう相手と、大きな変化であるはずなのに前進とも言えないような生活がはじまる。
・この部屋に住まうかぎりは讃えあう料理する神そうじする神
 また、連作全体を通して言語的な質感に味わいがある。最後の歌の、
・冷えきった眼鏡はずせば真夜中の駅は光のかたまりだから
 この「だから」に醸されるやわらかなナンセンス性が、一つの作家性として立っている。
 この一連はセンス良くまとまった従来型の連作にも見える。でも、私は短歌の創作空間として〈私性〉から案外に脱している新鮮な印象を受けた。結果的に虚構性の問題なども自ずと回避しているところが興味深い。

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