青蟬通信

不在とリアル / 吉川 宏志

2016年10月号

 今年の夏、島根県の松江で「あたらしいリアル」というタイトルで講演をした。なぜ短歌を読んだとき、「リアルだ」と感じるのか。それはとても難しい問題である。同じ歌でも、リアルに感じる人と感じない人とに分かれることもある。松江といえば小泉八雲が暮らしていた土地である。それで、八雲の『怪談』を題材にしながら話をしてみた。
 引用したのは、最も有名な「耳なし芳一のはなし」のクライマックス。盲人である琵琶法師の芳一は、毎晩、何者かに呼び出されて琵琶を弾く。ところがその正体は平家の亡霊であった。このままではとり殺されてしまう。そこでお坊さんは、芳一の身体にお経を書くことで、亡霊から見えないようにする。しかし、耳にお経を書くのを忘れたため、平家の武者の亡霊は、芳一の耳を引きちぎって持っていってしまう。
「その刹那、芳一は、自分の耳が鉄の指にひっつかまれて、もぎ取られるのを感じた。その痛さは、たいへんなものだったけれど、声はたてなかった。重い足音が、縁側づたいに遠ざかり――庭へおり――道路のほうへ出ていって――消えてしまった。盲人は、顔の両側から、温いどろどろしたものが、ぼとぼと落ちるのを感じたが、手をあげようともしなかった。……」(田代三千稔 訳)
 久しぶりに読んだのだが、じつになまなましいと思った。とても信じられない話だけれど、目の前で起きたことのように感じる。「リアル」というのは、現実にあり得るかどうか、とは、まったく別の次元の問題なのである。
 リアルに感じる理由はいくつかあって、一つは、耳がちぎられる、という痛みが、直接的に響いてくるからだろう。脳科学の本によれば、他人が痛がる様子を見ると、自分の脳も痛みに関する部位が活性化するそうだ(実際に痛みは感じないけれど)。書かれた文字を読んだだけでも、身体的な反応は生じてくる。「鉄の指」という言葉から、ぞっとするほど冷たい感触が伝わってくる。
 目立たないところだが、「重い足音」という表現も印象的だ。鎧を着た武者のずしりとした身体の様子が、ここからも感じられるのである。八雲は、読者の皮膚に文字が沁みていくように、この話を書いた。
 それから「顔の両側から、温いどろどろしたものが、ぼとぼと落ちるのを感じた」という表現にも注目したい。「温いどろどろとしたもの」とは何か。もちろん、血である。しかし八雲はそう書かない。「血」と言わないことにより、かえって血の恐ろしい存在感が生まれてくることを、彼はよく知っていた。無いもののほうが、かえってまざまざと感じられる。ここに言葉の不思議さがある。
 この物語全体が持っている謎めいた力も、そこから生まれていて、耳が失われたことが、逆に「耳」の映像を鮮やかに浮かばせるのである。
 もともと言葉は、〈不在性〉を帯びている。たとえば、ここに現実の池はないけれど、「池」という言葉を発することで、池の幻影が生まれてくる。そして、表現のしかたによっては、水の冷たさのような身体感覚まで味わわせることができる。
 逆に目の前に本物の池があったら、リアルさをほとんど意識することはないだろう。そこに当たり前に存在するのだから、疑いが生じてこない。〈不在〉であるからこそ、逆説的に「リアル」という感覚は立ち上がってくる。
 〈不在〉から〈身体感覚〉へと押し上げていく想像力。それが、私たちが「リアル」という言葉で呼んでいるものなのかもしれない。
  一人なる夕餉を終へて俎板の使はなかつた裏も洗へり
                           高野公彦『無縫の海』
 「使はなかつた裏」という言葉がとても効いているのだが、ここには何か〈不在〉の感じが籠もっている。それを夕暮れに手で洗っているという身体感が綯い交ぜになって、この歌の確かな臨場感が生み出されているのだといえよう。一人の男性の後ろ姿が、くっきりと見えてくる気がする。そしてそこには、妻の死という〈不在〉も、反映されているのだった。

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