青蟬通信

批評のゲーム / 吉川 宏志

2016年8月号

 竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』(角川ソフィア文庫)を読んだ。書名のとおり、一般向きの哲学書なのだが、まるで短歌の批評について書かれているような箇所があり、強い印象を受けた。
「美的表現は、それぞれのジャンルの公共的テーブルの上におかれ、その優劣を競い合う。人々はそこで、どの表現がより優れているかについて批評し合うが、事前には、どんな美の基準も存在していない(過去の優れた作品という範例・・だけがある)。ただ多くの批評が美的感受性を競いながらも、なぜある表現がより優れた「美」であるかの言葉を示しあうだけだ。」
 歌会をイメージしてもらえばいいのだが、「いい歌/悪い歌」という基準がはっきりしてしまうと、その会はすぐにおもしろくなくなる。たとえば、「擬人法は良くない」と強く主張する人がときどきいる。けれども実際には、擬人法を使っていても良い歌はいくつもあるわけで、「擬人法は駄目だ」という「基準」を作ってしまうと、スリリングな批評は生まれなくなるのである。
 「過去の優れた作品」を想起しながら、今の歌をゲームのように批評し合うことが大切なのだと竹田は述べる。これは活発な歌会ではよく目にする光景だろう。歌会のメンバーは平等である。しかし、過去の名歌や秀歌を知っている人ほど、この批評ゲームでは有利になる。
 竹田の論をさらに読んでいこう。「そこにはつねに評価の「偶然性」がつきまとい、美の普遍性についての不信と懐疑もまた現われる。しかしにもかかわらず、この批評のゲームが長く続くなら、人々は美の秩序の普遍性についての自然な信憑をそこで共有するようになる。そして逆に、何らかの理由でこの自然な信憑がなくなれば、その美のジャンルは消滅するのである。」
 そんなに良いとも思えない歌が、たまたま高く評価される、ということも起こる(これが「偶然性」)。そんなとき、私たちは短歌の批評に「不信と懐疑」を抱くこともある。
 けれども絶望せずに、「批評のゲーム」を続けていると、誰もが、それぞれのやり方で「美の普遍性」を求めているということが分かってくる。考え方や価値観が違っていても、お互いに信頼し合える人々が存在することが見えてくるのである。「善や美は「イデア」のように実在するのではなく、「ほんとう」を創り出そうとする関係のゲームの中でだけ、秩序・・として創出される。」
 ほんとうの美というものは、あらかじめ存在しているのではない。けれども、ほんとうの美があるはずだ、とお互いに信じて批評をすることにより、人々の記憶に残る名歌は生み出されていく。逆に、真の美なんて存在するはずがない、という虚無的な心理に陥ると、何も優れたものが生まれなくなってしまう。
 「価値観は、人それぞれ違っている。他人がどんな歌を評価しようと、自分には関係ない」という考え方の危険性はまさにそこにある。想像してみてほしい。歌会で、他人が批評するのを聞いても、自分の意見が全く変化しないのであれば、新しいものは何も発見できないだろう。
 歌会には、批評の巧さやおもしろさによって、聞き手を説得していく面がある。しかし、そういった批評がつねに勝つわけではなく、素朴で真情のこもった評が、最も心に響くということもある。まさに「批評のゲーム」であり、その遊戯性を嫌う人も存在する。
 ただ、そうした自由なゲーム性こそが、「真理」を保証するのである。「真理」は初めから存在するのではなく、「真理」を求めて他人と語り合おうとする姿勢の中で醸造されていく。竹田は、それは政治についても言えることであり、芸術は、ある意味で政治の本質に繋がっていると述べる。もちろんそれは理想的な政治の場合であり、現在は自由な議論が抑圧されつつあるのだが。
 平安時代から、「歌合(うたあわせ)」という遊びも行われてきた。短歌というジャンルが長く続いてきたのは、そうした批評のゲームと一体化しているからかもしれない。

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