短歌時評

「評伝の時代」に思うこと / 花山 周子

2016年7月号

 評伝というジャンルがにわかに注目されている。三枝昻之は、昨年の「短歌研究」十二月号の座談会の中で「今、現在の問題、もう少し過去の問題を手探りするときに、どこを足場にするか、一人の人間にどれだけ丁寧に当たるか、そこからの手探りが有効なのではないか。そんな意識がみんなの中にあって、それが評伝というジャンルをかなり読み応えのあるものにしているように感じる。今は評伝の時代かなと」と述べている。また、同四月号の特集「評伝を考える」の基調論考において、「すぐれた評伝はミクロな観点から映しだした短歌史にもなる」として、前田透の『評伝前田夕暮』をあげる。三枝がここで着目しているのは一つの時代を見る場合に一人の人間に基点を置くことの有効性である。しかしまた、短歌の記録性という観点からも、こうした評伝の意義は、今日的ニーズと合致しているように思う。東日本大震災を契機に短歌の記録性そのものの重要性にスポットが当たるようになり、さらにまた、震災以降よりリアリティを持ち始めた戦前と現在との相似性を探る有効な手段としてその記録性は注目されつつある。中根誠著『兵たりき―川口常孝の生涯』は、凄惨な戦争詠を数多く残した川口の歌業に執拗に迫った大著であるが、
・性病を持たぬ慰安婦を真っ先に軍医が抱けり検診終えて
など、何よりも歌の記録性、具体性が切実な説得力としてまず存在している。
 さて、特集「評伝を考える」は三枝の基調論考に加え、評伝執筆者でもある総勢四十名による「わたしがすすめるこの一冊、わたしの姿勢」は圧巻であった。さらに特集末尾には、「書誌一覧」として大正十二年から現在に至る主要な評伝が列記されている。ただ、四十冊もの評伝が紹介された中で、対象歌人の短歌作品が挙げられた文章は五つにとどまっていることが少し気になった。基本的に人物が主体となる評伝においては、作品の自立した検証は当然難しくなる。「塔」二〇一四年七月号の時評で大森静佳が「作品と実人生を無理に繫げようとすれば作品の本質を見逃してしまう危うさもあってなかなか難しい」と危惧していたことも思い出される。また、評伝というジャンルの特性は、読み物として大いに楽しめるものであるが、評価基準が確立しにくいのも現状で、新しい発見やそのための努力が評価の対象になりがちである。が、それでは研究書の扱いと変わらない。私は短歌評伝に対しても文学としての視座から積極的に評価する必要を感じている。
 ところで今、評伝に限らず過去への関心が高まってきているように感じる。たとえば塔は終戦間もない昭和二十九年に高安国世によって「僕たちはただ先人によって示された道を、芸道のように踏襲するだけで足れりとするものではない」という清新な言挙げとともに新しい時代に向かうべく出発した結社である。けれど、創刊六十年以上の歴史を持った現在、自ずからその指向するものは変容しつつある。塔、そしてアララギという伝統へ、未来ではなく過去へその根拠が探られていったのがこの数年の歩みであったように思う。そのような過去を見つめ直す流れは、情報が溢れ急速にその背景や人間が捉え難くなっている現在に対するひとつの見識として働いてもいるのであろうが、自らを正当化する根拠として伝統や短歌史を求める向きも感じられ昨今の時代的状況と鑑みるとき気持ち悪いなとも思うのだ。一方では若い歌人たちの創作活動のまさに隆盛期とも言える現在、その内部では評論も盛んに書かれている。ただ、いずれも欲求が先行してゆくとき現在自体を喪失していくような感覚がここ数年私にはある。

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