青蟬通信

「ハカアガリ」と「ネカヂ」 / 吉川 宏志

2016年7月号

 岩手県の遠野に、今年の五月に初めて行った。中学校の頃だったか、国語の教科書に柳田国男の『遠野物語』が載っていて、たちまちそのおもしろさに引き込まれてしまった。すぐに文庫本を買ってもらって、何度も読んだ。マヨイガ、ザシキワラシ、河童、オシラサマ……。さまざまな怪異が描かれていて、いつか実際にその舞台を見たいと思った。三十年以上経って、やっとその機が訪れたのだった。
 遠野のあたりは五月でもまだ寒く、野の中にぽつんぽつんと桜が咲いていた。
 デンデラ野という地名がある。蓮台野が訛ってこう呼ばれるようになったという。蓮台野とは墓地のことで、京都の北部にも地名が残っている。風葬が行われていたらしい。全国のあちこちに、死体を捨てる土地は存在していたのだろう。
 『遠野物語』には、こう書かれている。
「昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追ひやるの習ひありき。老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆゑに、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり。」
 「ハカダチ」とは「墓発ち」、「ハカアガリ」は「墓上がり」ということだろう。老人は墓地に住まわせられて、亡くなることを待たれていたのだった。今のデンデラ野に行ってみると、土筆やタンポポが生えていて、のどかな野原なのである。水車も回っている。しかしかつては、ゆっくりと死を待つという凄惨な風景が広がっていたのだった。
 私は次の一首を思い出していた。
  日暮れにはみなハカアガリなすらしも蛾の寄るごとく灯火(ともしび)の邊(へ)
                            前登志夫『落人の家』
 この歌は現代の山村の風景(前が住んでいた奈良県吉野)を詠んでいるのだが、老人が多くなり、生と死のあいだをさまようように見えていたのだろう。「ハカアガリ」という言葉には、暗い記憶に根ざした、不思議な手触りがある。そうした言葉の闇を、前は自らの歌に取り込もうとしたのだった。
 デンデラ野から車でしばらく行くと、山の上に、発電用の風車が並んでいるのが見えてきた。タクシーの運転手さんが、「あれは川井村で、つい最近まで電気も引かれてなかったんですよ」と言う。
 川井村という名を、どこかで聞いたことがある気がした。家に帰って調べると、最近亡くなった柏崎驍二が訪ねて行って、歌に詠んでいたのだった。
   昭和六十三年電灯が引かれた
  早池峰(はやちね)の裾のなだりの山中にほたるのごとく灯したりけり
                               『百たびの雪』
 昭和の終わりまで、電気が通じていなかったのか。柏崎は、この村の入植者である向田マサヨさんと交流があったようで、「働いてさへゐれば人は食へるもの〈極楽だあ〉とマサヨさん言ふ」といった歌もある。
 テレビもなく、夜には本も読めない生活である。食べることができればそれでいいと感謝する無欲さに、柏崎は心を打たれつつ、そのようには生きられない自分を憐れむ感情も浮かび上がってきたのではないか。歌や文章を書くためには、文明の側に、どっぷりと体の一部を浸さなければならない。
  ネカヂといふ言葉のこれり飢ゑのため眠られぬ夜の苦をいふ〈寝渇(ねかぢ)
                               『百たびの雪』
 柏崎もまた「ネカヂ」という言葉に注目している。今では、多くの場合、いつでも食べ物を手に入れることができる。しかし、飢えの記憶が刻み込まれた「ネカヂ」という言葉を忘れてはならないのではないか。そう思い、柏崎は、歌で記憶しようとしたのであろう。
 遠野は、私にとって憧れの地であった。不気味な妖怪に、好奇心をかきたてられていたのである。しかし、そこに行ってみると、さまざまな伝説は、貧しく寒く苦しい生活の中から生まれてきたものであることを、強く実感せざるをえなかった。

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