青蟬通信

『ヴェロニカ』のことなど / 吉川 宏志

2016年5月号

 大口玲子『神のパズル』という本が出た。この本は、大口が今までに作ってきた放射能の被害に関する歌や、大震災後の避難について語った講演、エッセイなどが収録されている。版元のすいれん舎は、もともと公害問題などの社会思想の本を出している出版社なのだが、社長の高橋雅人氏が、大口の歌に非常に共鳴し、この一冊が作られたとのこと。従来の短歌の本とは違った切り口で編集されていて、興味深かった。
 この本の中に、竹山広の歌に関する講演録も収められている。その一部を紹介したい。
  死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしことひとつかがやく
                              『とこしへの川』
 長崎の原爆で死んでいった女の子を詠んだ一首だそうである。この歌について大口はこう語っている。
「竹山さんにとって、被爆直後の状況にあって女の子に水を飲ませてあげるのは、特別なことではなかったのです。ただ自分のその行為の意味として竹山さんが感じていたのは、「自分は水を飲ませてあげることができた、あの女の子にいいことをしてあげた」という自己満足のようなものではなく、水を飲ませてあげることができたということで、あのとき死んでしまった女の子が、その後も生き続ける自分を確かに救ってくれているということなのではないでしょうか。(略)どんなことにも神の意志が働いており、どんなことにも意味があるというカトリック的な考え方を私は思いました。」
 私はキリスト教についてはよく分かっていないと思うのだが、この一節を読んで、中学校の国語の教科書に載っていた遠藤周作の『ヴェロニカ』という随想が、まざまざと脳裡に浮かんできた。三十年ぶりに、教科書を借りて読んでみる。
 イエス・キリストは処刑される前、ゴルゴダの丘までの道を、重い十字架を背負って歩かされた。前夜までの拷問でひどく傷ついた身に、それは過酷な仕打ちであった。しかも沿道には群衆が立ち並び、イエスに罵声を浴びせかけた。
「悲しいことですが、こういう場合、大衆というものは原始的な残酷な本能に駆られるものです。かつてドイツのナチスがユダヤ人たちの家庭を襲って、無実な人々を引きずっていったときも、群集はナチのむごたらしい行為に付和雷同した。」
と遠藤周作は書いている。
 そのとき、一人の女が走り出て、イエスの血だらけの顏を布でぬぐってあげた。それは「胸の締めつけられるような激しい憐憫の情」から生まれた行為だったろうと、遠藤は想像している。群衆がイエスを迫害する中で、女はためらいもなく、その行為を行った。
 女が家に帰って布を見ると、イエスの悲しみの顏が布に写されていたという。この女が後にヴェロニカと呼ばれるようになった。
 傷ついた人の顔を布でぬぐってやるという行為は決して「特別なこと」ではない。竹山広が女の子に水をあげたのと同じように。
 しかし、異常な状態、狂気に支配された状況では、その当たり前のことを行うことが、静かな輝きを帯びる。崩れた社会の中で、人間性を再び創り出そうとする一歩であるからだ。布にイエスの顔が写されたというのは、ヴェロニカにとって、「その後も生き続ける自分を確かに救ってくれている」ことを意味しているのであろう。恐怖の中で、ふだんと同じことができた、という事実は、人を最も強く支える記憶になるのかもしれない。
「ヴェロニカの小さな存在は、社会や群衆がどんなに堕落しても、人間の中にはなお信頼できる優しい人のいることを僕たちに教えてくれるようです。」
 この遠藤周作の言葉を、私は確かに記憶していた。中学生にとって『ヴェロニカ』は少し難しい文章だったけれど、〈おまえは傷ついた人を布でぬぐってやることができる存在なのか〉という厳しい問いを投げかけられた気持ちになったからだろう。乾いた校庭が見えていた冬の教室を思い出す。今もこの問いに答えることはできない。

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