青蟬通信

「……ども」の影響について / 吉川 宏志

2016年4月号

 「短歌研究」四月号に「評伝を考える」という特集が組まれており、私は柴生田稔の『斎藤茂吉伝』『続斎藤茂吉伝』について書いた(この特集には、塚本靑史さんと永田淳さんの対談も含まれているので、ぜひ読んでみてください)。
 『斎藤茂吉伝』は正・続ともに四百頁を超える大著である。たまたま一週間ほどの東北出張があり、列車やホテルの部屋でずっと読んでいた。二十年ぶりくらいの再読だった。ただ、柴生田稔の文章は、冷静さの中に茂吉への愛憎が波打っており、飽きずに読み進めることができる。茂吉を辛辣に批判している箇所も、ときどき混じる。
 事実を並べるだけでは文章は平板になるわけで、どこかに筆者と対象(この本であれば柴生田と茂吉)との格闘が潜んでいることが大切なのであろう。評伝には、独特の文体が必要であることを改めて感じた。
 『斎藤茂吉伝』で、はっとさせられたのは、たとえば次のような指摘であった。
  わが庭に鶩(あひる)ら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに
                           『赤光』(大正元年)
 「……ども」という表現は、この時期の茂吉の歌に多いのだが、それは木下杢太郎の「柘榴舎利別」(大正元年八月)という詩に影響されているというのである。
  柘榴舎利別(ざくろしゃりべつ)にWHISKY(ヰスキイ)の酒はたらせども、
  銀の月遠き壁にあたれども、
  また玻璃燈(はりとう)を弔(つ)る船の水を行けども
 この「……ども」の技法に茂吉は強い関心を持ち、「アララギ」大正二年二月号に、杢太郎風の自作の詩も発表しているという。
 「……ども」については、大辻隆弘の最新の評論集『近代短歌の範型』でも論じられていた。
  啼く声は悲しけれども夕鳥(ゆふどり)は木に眠るなりわれは寝なくに
                            『赤光』大正二年
 こうした歌に使われている「……ども」に、大辻は論理的な強引さを感じるという。そして、
「これらの歌には『悲しげに啼く鳥は眠ってはならない』『能天気なアヒルは陰惨な雪の日には啼いてはならない』という茂吉の勝手な思い込みがある。その勝手な思い込みが裏切られたからこそ、茂吉は、まるで駄々っ子のように悔しがる。」
というふうに論じていくのだが、筆の勢いもあろうが、多少オーバーな印象を受けた。「駄々っ子のように悔しがる」はやや言い過ぎで、私はもっと静かな諦念のようなものを感じ取りたい。
 おそらく実際は、木下杢太郎の影響を受けた茂吉が、「……ども」をやや無理気味に歌の中で使ったために、奇妙な文体のねじれが生じてきたのだろう。もともとは偶発的だった表現が、茂吉の性格を反映した歌へと変質していったのである。
 つまり、強引な人間だから強引な言葉を使うのではなく、強引な言葉を用いるからこそ強引な人間像が形成されていくのだ。こうした逆転現象は、作者と作品の間でしばしば起きるように思われる。
 柴生田はこんなことも書いている。
「一体露伴にせよ、鷗外にせよ、全体として懸け離れたやうなものの中から、意外に茂吉的な一部を鮮やかに取出して来てゐるのが、茂吉の受け入れ方の特色であるが、この木下杢太郎の場合にも同じことが言へるやうである。」
 他の作者からの影響というと、目立つ部分や分かりやすい部分を取り入れるだけになることが多い。俵万智の影響であれば、明るい話し言葉の模倣にとどまってしまうのである。
 しかし、茂吉はそうではなかった。茂吉と杢太郎は、かなりタイプの違う文学者のように見える。しかし茂吉は、「……ども」のように、他の人が気づかない細かい点に注目して、自分の表現に加えていったのだった。
 他者の表現からどのように学ぶか、について、柴生田は重要なことを述べている。誰の目にも見えるようなところを真似ても、それ以上に深まっていくことはない。〈意外な一部を鮮やかに取り出す〉ということも、文学的な才能の一つなのだ。

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