短歌時評

内藤明『虚空の橋』と柏崎驍二『北窓集』 / 花山 周子

2016年3月号

 昨年刊行された二冊の歌集が印象深かった。一つは内藤明歌集『虚空の橋』。
・ここに在りてここに今なき家の跡風に凍えて冴ゆる眼は
 津波の被災地を訪れた際の歌であろう。「風に凍えて冴ゆる眼は」という歌い方が独特だと思う。ことさらに何かを言わない。
・大いなる力によりてこの夜を廊下の奥に眠らされをり
・百合の香のよどむ夜明けに風のごと聞こえ来るなり父の嗚咽の
 母が亡くなった際の歌である。どこか泰然とした受け入れ方がやはり独特であると思う。この歌集では師である武川忠一、母、父の相次ぐ死を迎えているのだが、ことさらにそれらの死を突出させることのない日常と地続きの構成や歌い方が一貫してあるように思われた。たとえば父の挽歌の何首かあとには「父在りし日に。」と詞書が付され、
・ひとつづつ手順整へベッドより人は一気に起きあがりたり
と未だ生の側にあった父の行動が鮮やかに切り出されたりして妙に生々しい。
・内深く残る匂ひを嗅ぐごとし赤き柄(え)をもつ鉄のスコップ
・さびしきはわが先をゆく草の風庭をめぐりて水辺(すいへん)に出づ
 内藤に描かれる景には心象とも実景ともつかない、それらが淡く重なり合った茫漠感が常にある。
 もう一つの歌集は柏崎驍二歌集『北窓集』。
・黒き波を泳ぎし友にあらずやと思ひゐたれど水撒きに出づ
 柏崎の故郷は三陸であり、この歌集に震災の歌は多い。けれど、私はここでこの歌集を「震災歌集」として差し出したくはない。「黒き波を泳ぎし友にあらずや」という辛い想像とともに、この歌集にもまた地続きの日常があるのだ。この歌の三首あとには、
・秋日照る林の岸のみむらさきうつくしければ帽脱ぎて見つ
という歌が置かれていて、うつくしいから帽子を脱ぐという人の行為に心打たれる。
・「荒れはでだ浜の様子だが見どぐべし」我らがつかふ勧誘の「べし」
 震災を詠う場合にも折節にこうした歌がある。歌人としての言葉への関心が一貫して働いている。この「べし」が強く心に残る。そしてなにより印象深かったのは次の歌だ。
・よきことを思ひて生きむ傷み負ふ地のうへに死ぬいのちなれども
 「傷み負ふ地のうへに死ぬいのち」という厳しい認識があって「よきことを思ひて生きむ」と言うのだ。かなしみを訴えるのでもかなしみにくれるのでもなく震災を受け入れる。
 それぞれの歌集にはこんな歌もある。
・バスタブに遊ばす左右(さう)の膝小僧しんじつ生きてきたのだらうか
                              『虚空の橋』
・幸福とか不幸とかいふ価値観を去らねばならぬ、なあ鷗どり
                           『北窓集』
 生きて来たことで重みを増すような人生観はここにはない。寧ろそれは真摯に生きれば生きるほど失っていくものなのかもしれない。内藤も柏崎も全体として「われ」を重心に置くような詠い方をしていない。そして現代社会が強いる「立場」や「関係性」に雁字搦めにされた「われ」からも不思議に自由である。内藤も柏崎もあくまで「個」であり「孤」として詠っているのだ。そして、歌集全体が一人の人の想念として静かに息づいているのである。二冊の歌集を読みながら私は「なるほどうまいな」とか「これは失敗してるな」、とかそういう小賢しい感想めいたものが少しも起こらなかった。ただ、この二人の居る世界は捨てたもんじゃないと思えたのだった。

ページトップへ