短歌時評

私を圧迫するものについて / 花山 周子

2016年2月号

 震災以降、私は意見をのべることが次第にもの憂くなった。自分の意見がわからなくなった。何かに頭を締めつけられていくようで、この時評の話がきたときには正直、私には何も書けることがないと思った。それでも時評を書くことで、自分の息苦しさの正体を少しでもつかみ、ほんの少しでもいいから打破できないか、と今は思う。
 現代短歌一月号「局部集中現象と自主規制」で阿木津英は九月二十七日に京都で開催された「緊急シンポジウム 時代の危機に抵抗する短歌」に触れつつ、「ただ一つ確実なことがある。政治は、日常そのものである。『アベ政治』は遠くにあるのではない。一人の生活者としての、一人の短歌作者としての、営みのもなかにある」と、問題を歌人自らに引きよせ、石井僚一の虚構問題や、服部真里子作品の「わかる/わからない」論議が話題になった点を上げ、「その論議の経過や内容はともかく、あまりにも歌人たちの関心が局部に集中しすぎていく傾向、その現象の方が気にかか
る」と昨今の歌壇の現状を危惧する。「日本人の雪崩れ込みやすい性格」が政治のみならず自らの足元に見てとれるというこの指摘は一つの視点だと思った。また阿木津は「短歌作者としての自身の日常を振り返ってみよう。歌壇内にあってものを書いたり歌を採り上げたりするとき、空気のような何とない圧力に押されたことはないと言い切れる人がどれくらいいるのか」とも問いかける。阿木津がここでイメージする「圧力」ははっきりわからないのだが、さらに阿木津が次のようにこの文章を結ぶとき、内容には賛同しつつも、その啓蒙的な物言いに私はふたたびふだんからの息苦しさを感じていた。
  政治に対して大声を挙げずとも、ついに時代の流れを変え得ずとも、いま、ここ
 にあって、それぞれが一人の生活者として短歌作者として、あるべき道すじを踏み
 つつ、確実に自分に改め得ることを改めていこう。
 なぜ、「私は改めていこうと思う」と言ってくれないのか。最近の歌壇には阿木津の指摘する「局部集中」以上に、この他者を啓蒙しようとする言説に満ちていて、時代の焦燥感とない交ぜの啓蒙的欲求が、人を圧迫してきているように私には思われるのだ。ここのところ、世代差や価値観の違いという当然あるべき多様性が、ことさら断絶として強調され、ネガティブに語られるのも、各々がのっぴきならない場所で他者に影響を及ぼそうとする焦りと欲求に根ざしているのではないか。
 短歌研究「年鑑」における座談会「戦後七十年からの出発、あたらしい短歌史を」の最後で栗木京子が次のように発言していた。
 (略)時評が今、機能しているかというとそうでもない。いい時評の書き手がいな
 い。特に、結社誌が物足りない。ちょっと話題になっていることを要約して「みな
 さんこんなことがありますよ」と報告しているだけで、書き手の何の意見も出てこ
 ない。
 そうだっただろうか。私は結社誌の時評はほとんど読めていないのだが、少なくとも「塔」の時評では大森静佳が毎回はっきり自身の意見を表明して来たように思うし、総合誌においても、内山晶太や田中濯、大辻隆弘、黒瀬珂瀾、永井祐、澤村斉美等々、それぞれ相当の覚悟で意見を表明していて、話題が集中した一面ももちろんあったが、それ以上に時評が今までとずいぶん変わったことに私は新鮮さを感じた一年であったのだ。栗木の言葉はこれから時評を担当する自身の戒めとして受け止めておきたいと思う。ただ年鑑という場でこう括られたとき、いきいきとした個々の時評が埋没してしまったような気がした。

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