青蟬通信

スキーと「死ぬるいのち」 / 吉川 宏志

2016年1月号

 斎藤茂吉の『寒雲』は、昭和十五年に刊行された歌集である。その冒頭に、「豊年」という題の五首が置かれている。昭和十二年の正月のために作られた一連である。次の二首が同じページに並んでいるのだが、最近とても気になっている。
  高山(たかやま)の雪を滑りに行くをとめ楽しき顔をしたるものかも
  ひとつ國興(おこ)る力のみなぎりに死ぬるいのちも和(のど)にあらめや
 一首目はもちろんスキーを詠んだもの。このころから若い女性がスキーをしていたのだなあと驚かされる。ほのぼのとしたかわいらしい歌である。スキーが日本に伝わったのは明治四十四年のことで、長野から全国に普及していったらしい。JOCのホームページによると、「当時はスキー用の服などなく、軍人は軍服で、女性は着物に袴といった様相」だったそうである。
 二首目は解釈がなかなか難しい。昭和十二年といえば、日中戦争が始まる年である(七月七日に盧溝橋事件)。日本が大陸に向けて膨張を強めていた時期であった。「ひとつ國興る力のみなぎり」とは、軍国的な力の昂揚を描いているのだと思われる。
 「死ぬるいのち」とは、「死んだも同然の命」「死にそうな命」という意味。古今和歌集に「死ぬる命生きもやするとこころみに玉の緒ばかりあはむといはなむ」(藤原興風)という歌があるのが参考になる(死にそうなので、少しでも逢おうと言ってほしい、という歌)。茂吉の歌は、前線の兵士の命のことを詠んでいるのではなかろうか。
 「和(のど)」は、のんびりしていること。「あらめや」は反語表現なので、「のんびりしているだろうか、いや、のんびりしていないだろう」という意味になる。
 〈国が盛んになっていく勢いに、死を間近にした人々も、のんびりとしてはいないだろう。〉
 そんな解釈になりそうなのだが、どうもしっくりしない。茂吉が何を考えていたのか、いま一つ、よく分からないのである。いろいろな人に意見を聞いてみたい歌である。
 茂吉の『童馬山房夜話』に「上海出征記」という文章がある(昭和十年)。アララギ会員で山形高等学校の教授であった松本良彦が、上海事変に出征したときの記録を紹介したもの。負傷した松本は、専門軍人ではないので、命が惜しいと感じるときがあったそうだ。そうした恐怖心を、松本は率直に告白している。そして、専門軍人の死を恐れない態度を羨ましく思ったという。
 茂吉はそれを踏まえて、こんなことを述べている。
 「戦争は所謂戦闘だから、その戦闘的実力を有つことが必要である。その実力を有つためには、死を恐れない練習をすることが誠に大切な要素の一つである。この練習は宗教的哲学的に結論をつけてそれを飽くまで守らうとするのもいいと思ふが、もつと器械的な原始的な、戦闘の中にしじゆう生活する練習をすることが大切なやうに思へる。」
 つまり、何度も戦闘に参加していれば、死を恐れない心が育つのだ、ということを言っているわけである。今読むと、あまりにも危険な発想である。茂吉は、国家主義的な発言を、疑いもなくしてしまう人だった。
 こうした、軍人に対する見方を踏まえれば、この歌の一つの解釈を作り出すことができると思う。
 〈日本の軍人たちは、死を恐れていない。しかし、この緊迫した情勢では、やはりのんびりとしてはいられないだろう。あるいは、専門の軍人以外には、戦闘におびえている兵士もいるのではないか。〉
 そういうふうに読むことで、当時の茂吉の心理は、かなりリアルに蘇ってくるように思われる。もちろん、これは私の読みなので、ほかの捉え方も当然あるだろう。この茂吉の一首は、これまでさほど注目されてこなかった歌だが、とても複雑な奥行きをもっていることが分かる。
 スキーを楽しむ若い女性と、国家によって死んでゆく命。昭和十二年の新年は、平和と戦争がまさに共存をしていた。そして、同じようなことは、現在でも起こりつつあるのではないかと私は思うのである。

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