短歌時評

私は今から本当の戦後をはじめる / 花山 周子

2016年1月号

 私はほぼ戦後二世だ。戦後七十年を経てようやく語り出された兵士の言葉や明るみにされた映像を見るにつけ、戦後を担ってきた人々と社会がひどく不気味に思われるようになった。容易には語り得ない体験とそこに纏わる感情があったはずでそれはどのように処理されたのだろうか。私は高校三年まで繰り返し縄文から明治に到る日本史を教えられたが、その後の現代史を教わることはなかった。これは異常なことに思われる。あれだけの歴史的出来事がなかったことのように毎年素通りされたのだ。気持ち悪い。でもこんなふうに気持ち悪いと言えるのは私が戦後二世だからかもしれない。戦争に関わったことで生まれる感情を私は持たない。
 九月に刊行された川野里子の評論集『七十年の孤独―戦後短歌からの問い』は〈戦後短歌とは如何なるものであったか〉という問題意識が、端々にまで行き届いた川野の現在的な鋭い認識によって貫かれているとも言える。この問題意識は戦争体験者を失いつつある現在、「戦後」という視野が大きく欠落しつつあるという極めて真っ当な危機意識が根拠になってもいるだろう。「どの章から読み始めていただいても構わない。」というこの本はしかし最初の頁から順当に一字一句飛ばさずに読むのが一番よい。何より構成がよく考えられているのだし、この順序で読むからこそ戦後短歌、延いては日本の戦後の簡単には見極め難い矛盾が軋みを起こしはじめるからだ。
 たとえば川野は第二芸術論を「短歌という詩型に戦争と敗戦とをきちんと体験せよと迫るものであった」とし、これに対する塚本邦雄の徹底した態度を「安保闘争を経て、表層的な日本回帰ムード・・・・・・・・・・・が流れるなか、塚本は自らの詩的体験としての戦争を手放さない」(傍点は筆者)と書く。また別の文章では「表層的な日本回帰ムード・・・・・・・・・・・」として登場したところの山中智恵子の歌の在り方を、
・ 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりかみ)に雪降るさらば明日も降りなむ
 この歌ほど戦争を経て傷ついた言葉、戦後の言葉との格闘を深いところで思わせる
 歌は他にない。スサノヲの悲劇は戦争を潜った人々一人ひとりの悲劇であったろ
 う。そしてこの古代の物語の磁場にまで立ち返らねば口にすることのできぬ言葉と
 して「かなしみ」はあったのではなかったか。
と高く評価する。山中は戦後の、そして六十年安保後のまだ生臭い血の通ったかなしみ・・・・を民族的物語に託した、とする川野が、山中の歌の有り様を戦後の一つの結実として評価することに異論はない。しかし続けて、
 (略)山中智恵子こそ最も深く戦後を背負い、言葉の戦争を糾弾し、また癒し、磨
 いた歌人ではなかったか。
とまで言ってしまうとき、私は戸惑う。「言葉の戦争」が明確には分からなかったのだが、少なくともこの歌が何かを「糾弾し」ているとまでは言えないのではないか。また川野が言うようにこの歌に戦後という文脈を積極的に読み取るとき寧ろ、民族の「かなしみ・・・・ 」に現実の「戦争」が回収されることで戦争の現実的な責任の在り処を考える場所が放棄されてはいまいかと気になってくる。
 戦争体験者が次ぎ次ぎと失われてゆく現在、それは忘却という負の面から語られることが多いけれど、寧ろ、戦争に関わっていた彼らだからこそ、あの戦争を清算することができなかった側面もあったのではないか。そこに感情が張り付いていたからこそ、直接に語り合えない戦争があったのではないか。私は敢えて川野の認識の方向性に対し戦後二世という立場からの方向性を探りたい。私は今から本当の戦後をはじめる。

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