青蟬通信

千本松原 / 吉川 宏志

2015年11月号

 沼津市若山牧水記念館に、先日、初めてうかがった。沼津牧水会の理事長である林茂樹氏をはじめとする方々に、牧水が愛した千本松原を案内していただいた。
 ちょうど陽が沈むころで、海が明るい紫色になり、それに向き合う松林は暗緑色に沈んでいる。松林の背後に富士山がそびえているらしいが、この日は大きな秋の雲がかかっていた。それは残念だったけれど、見ているだけで心が伸びやかになってくる風景である。
  路ひとつほそくとほれる松原の此処の深きにみそさざい啼けり
                             『黒松』
 牧水はこの松原を愛し、日々散歩して、季節の移り変わりを体感したのだった。
 ところが、大正十五年、静岡県による松林の伐採計画が明らかになる。松やその他の樹木を材木として売ろうとしたらしい。沼津では反対運動が起こったが、牧水もそれに積極的に参加するようになる。
 もともと牧水は、政治や社会運動に熱心なタイプではない。牧水は『中央新聞』の記者をしていたこともあり、時代の動向に敏感な一面も、もちろんあった。ただ、明治四十三年に起きた関東大水害について、
  洪水(おほみず)にあまたの人の死にしことかかはりもなしものおもひする
                                『路上』
といった歌も残している。これはあえて、社会的な問題よりも個人的な恋愛のほうが大切なんだ、というポーズをとってみせた歌だろう(村木道彦の「月面に脚(あし)が降りたつそのときもわれらは愛し愛されたきを」などの源流のような歌である)。牧水はやはり、まず目の前の恋愛にのめりこむことで、人生の問題を深く表現していく歌人だったと思う。
 そんな牧水が、千本松原の伐採反対に情熱的に取り組んだのはなぜだろうか。牧水は『沼津日々新聞』と『時事新報』に、伐採を批判する文章を発表する。また、「千本松原伐採反対市民大会」で演説を行ったという。大悟法利雄によれば、講演などを苦手とした牧水にしては、珍しいことだったという。
 牧水が書いた文章で注目されるのは、松だけが大切だと言っているのではなく、椨(たぶ)や犬ゆずり葉などのたくさんの植物の名前や、山雀(やまがら)や四十雀(しじゅうから)、鶫(つぐみ)などの鳥の名前を挙げ、多様な生物が共存していることを重要視している点である。現代の言葉で言えば、「生態系」という概念で、千本松原を見ていたわけである。こうしたところに、牧水の自然観の新しさを見いだすこともできるだろう。
 また、『牧水歌話』(明治四十五年)で、次のように語っていたことも、千本松原の保存問題につながっているのではないか。
 「よく自然を咏み入るゝ私の歌を見て、私の歌に主観が無くなつたやうに非難する人がある。我がこころゆ(ママ)く山川草木に対ふ時それを歌ふとき、山川草木は直ちに私の心である。心が彼等のすがたを仮つてあらはれたものにすぎぬ。その歌に主観のこもらぬ道理のあらう筈がないと私は信じてゐる。」
 若いころは恋愛ばかりを詠んでいた牧水が、「山川草木」を数多く詠むようになり、自己を歌わなくなった、と批判されたらしい。
 しかし牧水は、自己と自然とは一体化しており、自然を詠むことは〈私〉を歌うことなのだと反論したのであった。
 そうであるから、松原が伐採されるとき、自分の身が切られるような痛みを、牧水は感じたのではないだろうか。その痛みのゆえに牧水は、伐採阻止の行動を起こしたのであろう。私はここに、社会詠の本質もあらわれていると感じる。
 つまり、社会を歌うことの根底には、自分の身に迫るような痛みが存在しているのではないか。それは実際に、自分が傷を負う必要があるわけではない。牧水のように、自己の一部である松原が切られることで、痛みを感じる場合もあろう。たとえば、自分の息子と同じ年代の若者が、戦闘に巻き込まれることへの痛みから、言葉が生まれてくることもあるはずだ。そういった、身体的な怒りを、社会詠においては大切にしたいと思うのである。

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