短歌時評

同人誌、総合誌、短歌への問い / 大森 静佳

2015年11月号

 刺激的な俳句同人誌がつぎつぎに刊行されている。短歌同人誌も盛況だが、歌人はどちらかと言うと作品メインで勝負するのに比べ、俳句同人誌はより多彩な試みがある印象だ。特に感じるのは、俳人は座談会が好きだということ。この春に出た「オルガン」創刊号(発行人・鴇田智哉)の座談会「佐藤文香の『君に目があり見開かれ』を読んでみた」が好例で、商業的視点から見た新しい句集づくりから、若手における境涯性の変化まで、短歌の現在にも通じる話題がたくさん出ている。
 角川「短歌」の時評欄が昨年から毎月六頁×二名体制となって注目されているが、その分、特集評論の頁数が減ってしまったのが気になる。九月号「〈私〉をどう歌うか」、十月号「写生のすべて」ともにひしひしと重いテーマでありながら、総論でさえ見開き二頁だった。この分量ではどうにも概論風あるいは急ぎ足になってしまい、じっくりした新たな斬り込みは出てきにくいのではないだろうか。
 俳句総合誌は、短歌の総合誌よりもさらにずっと入門書的な色合いが強い。その分、同人誌が先鋭的な議論をリアルタイムで戦わせているように見える。
 さて、今年出た俳句誌で圧巻だったのは高山れおな率いる「クプラス」二号。特集は「正岡子規ネオ」と銘打たれている。
 特に眼を引くのは「平成二十六年俳諧國之概略」というお手製の地図。現代俳人が伝統・ロマン・原理主義の三つに分類され、かつ往来し、混沌としている。各俳人をどこに置くかを検討した過程は、上田信治・山田耕司らによる座談会で読むことができる。
 俳句形式を疑わない伝統主義、「私」やドラマを語るロマン主義、つねに俳句や言葉への問いを持つ原理主義。それぞれの島のなかに、さらに緻密な分類がある。三つの島の間には橋が架けられ、佐藤文香や岸本尚毅など橋の途上にマッピングされる俳人もいる。
 企画の背景には「今までの伝統か改革かという二項対立ではない、異なる視座を用意する必要がある」(山田)という問題意識がある。短歌界隈でも以前「言葉派」「人生派」という言い方が見られたが、「クプラス」の企画の目的は分類そのものではなく、かつて子規が虚子と碧梧桐を称揚したように、地図を描くことによって新たな才能がどこから出てくるかを考えることにあるらしい。
 興味深かったのは、現在の俳句は伝統的な「去私」を離れ、「私」を語るロマン主義への移行が目立つ、「心象優位の時代」だという指摘である。
 伝統≒ロマンである短歌にこの分類をそのまま当てはめることはできないが、短歌の地図がどうなるか考えてみると楽しい。新鋭短歌シリーズから出た望月裕二郎『あそこ』や伊舎堂仁『トントングラム』に顕著なように、短歌の、とりわけ若い世代にはむしろ原理主義への接近が目立つのではないか。「私」を語りたがる若手俳人と、従来の「私」から離れてゆく若手歌人という不思議な景色。俳句や短歌の伝統的な「形式」への疑いが飽和状態まで来ていることを感じる。
  小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは
  宝石ではなく
 フラワーしげる『ビットとデシベル』は韻律と内容の両面から形式を壊そうとした、原理主義の極北だろう。こうした自由律はもはや作品自体が短歌定型への批評である。
 ただ、批評的な歌のなかにも、やっぱりいい歌とそうでもない歌がある。言葉や形式への問いに留まらず、一首が「私」への問いや疑いにまで届いているかどうか。そのあたりに、何か大切なものがある気がする。

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