百葉箱

百葉箱2015年11月号 / 吉川 宏志

2015年11月号

  夜は明けはじめてゐたり海の面をうつすら海より浮かび上がらせ
                              久岡貴子
 ゆったりした韻律が快い歌である。「海の面」を「海より浮かび上がらせ」が不思議な表現だが、夜明けの海面が明るくなってきて、浮遊するように見えたのだろう。幻想的だが、リアルにも感じられる歌である。
 
  紐を引き蛍光灯を君が消す 蛍光灯が君越しに見ゆ
                        田宮智美 
 「蛍光灯」だけをクローズアップして歌っているが、恋の思いの溢れる一首。灯りが消える前の特別な一瞬が、シンプルな言葉から強く伝わってくる。「君越しに」が効いている。
 
  人はいつか例へばミロのヴィーナスの腕おもふやうに、憲法九条
                              加藤和子 
 ミロのヴィーナスの腕は存在しないが、かつてあったものとして〈存在〉している。憲法九条も、そんな虚の存在になりつつあるのではないか、という怖れが歌われている。技巧的な一首だが、深く考えさせられる視点がある。
 
  起案書に逆さの捺印する心意解かれどつひに自らはせず
                          宮城公子 
 本当は反対なのに、仕方なく許可しなければならないとき、印鑑を上下逆に捺す、という慣習?がある。作者はそれを以前聞いたことはあったが、そんな陰湿な行為を、自分はしたくなかったのだろう。組織の中でプライドを護る姿勢が、きびきびとした文体で歌われている。ただ「心意」の語は、やや生硬であろう。
 
  時たまに矢道を猫が通り過ぎそのあはひ誰も弓を引かざり
                           永山凌平 
 「矢道」は、弓道場で射るところから的までの間を指す。そこを猫が通るので、みな弓を射るのをやめた、という静かで穏やかな瞬時を歌っている。内容的におもしろいし、言葉遣いが簡潔で、すっきりとした奥行きを感じさせるのがよい。

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