青蟬通信

戦争を比喩で詠むこと / 吉川 宏志

2015年 8月号

 先日、黒木三千代さんと対談をした。黒木さんは一九九四年に『クウェート』を刊行した。一九九〇年の、イラクのクウェート侵攻を詠んだ歌を中心とする歌集である。二十五年が経ち、当時の歌を現在の眼で読み直してみようという試みであった。
 湾岸戦争が勃発し、十二年後のイラク戦争でフセインが捕らえられ、処刑された。その後、ISIS(イスラム国)が勢力を拡大し、日本人人質の殺害事件が起きた。この四半世紀で、歴史は大きく動いていった。
  侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷(ワジ)越えてきし砂にまみるる
  生みし者殺さるるとも限りなく生み落すべく熱し産道(ヴアギナ)
  咬むための耳としてあるやはらかきクウェートにしてひしと咬みにき
 『クウェート』で大きな話題になったのは、このような歌であった。激しい批判を浴びた、と言ってもいい。「レイプ」といった言葉を、短歌に使うことへの嫌悪感も大きかったように思われる。ただ現在では、そうした言葉を使うことへのタブー意識は薄れてきているだろう。
 最も重要な論点は、海外の戦争を、性愛という比喩で歌うことの是非であった。社会詠という観点で読むと、三首目などは、侵略を愛情表現のように描いているわけで、かなり危うい。当時、批判が巻き起こったのも、無理はなかったのである。
 ただ、黒木の感覚は違っていたようだ。黒木は逆に、性愛を戦争という比喩で歌おうとしていたらしい。黒木の抱えていた、性に対する衝動や怒りなどが、「戦争」という形を得ることで、短歌になったのだ、と言っていいかもしれない。黒木の話を聞いているうちに、何となく理解できる気がした。黒木には、
  三月はぬたといふ食(じき)春泥によごるるごとき葱が甘くて
といった歌もある。葱の「ぬた」という料理を詠んでいるのだが、なまなまとしたエロスがある。黒木の歌には、すべての物事を、性的に見るという特質がある。ある意味で、葱も戦争も同等に見てしまうアナーキーさがあった。それは非常に危険なまなざしである。しかしその暴力性が、黒木の歌に妖しい魅力をもたらしていることも否定できない。
 黒木の話でおもしろかったのが、
  かぎろひの夕刊紙には雄(をす)性の兇(まが)々としてサダム・フセイン
という歌について、「男が戦争を起こす」という、単純な男女観で詠まれている、という批判があった、ということだった。
 黒木は、この歌は「夕刊紙には」という限定に重点があるのだと言う。つまり、煽情的な夕刊紙は、フセインの雄々しさを強調して報道する。そうしたメディアのいかがわしさや安易さを批判的に詠もうとしたらしいが、誤解されてしまった。それが大変悔しかったらしいが、他の性的な歌の印象が強烈なので、読みが引きずられてしまった面はあるだろう。歌が大きな話題になっているときは、冷静に読むことができない。そんな傾向を示す好例かもしれない。
 『クウェート』は、海外の戦争を距離を置いて見ているから、比喩として歌うことができた。ある意味で、表現に余裕があったと言ってもいい。だが現在、集団的自衛権の行使に向けて政府は動いており、戦争の危機はもっと差し迫っているように感じられる。『クウェート』のような歌い方は、かなり難しいのではないか、という印象ももった。震災を比喩では詠めない、という論議もあったが、それにも共通する問題である。もちろんこれは、さまざな議論があるべきところだろう。
 その一方、
  世界とは言葉であつて「派兵」など「派兵でない」と言へばさうなる
という歌は、現在の国会でも同じような議論が繰り返されているわけで、シニカルな毒を失っていないように思われる。
 このように、二十年前、三十年前の歌集を読み直すと、その後の時代の流れを知っているために、新しく見えてくるものがある。あるいは、長い時間をおいて読み返すとき、新鮮な表情を見せるのが、良い歌集なのかもしれない。

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